植村眞久さんは、立教大学在学中に結婚。出撃前に、生まれたばかりの愛児に宛てた手紙を遺していた。
『素子 素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし又御風呂に一緒に入った事もありました。素子が大きくなって私のことが知りたいときは、お前のお母さんか佳世子叔母様に私のことを良く御聞きなさい。私の写真帳も御前の為に家に残して在ります。素子と言ふ名前は私が付けたのです。素直な心のやさいい思ひやりの深い人になる様にと思つて、御父様が考へたのです。(中略)私は御前が大きくなって、立派な花嫁さんになつて、幸になるまで見届けたいのですが、若し御前に私を見知らぬままにしてしまつても悲しんではなりません。御前が大きくなつて父に会ひたいときは九段(註・靖國神社のこと)へいらつしやい。そして心に深く念ずれば必ず御父様の顔がお前の心の中に浮かびますよ。父は御前は幸せ者と思ひます。生まれながら父に生写しだし、他の人々も素子ちやんを見ると眞久さんに会つて居る様な気がすると良く申されて居た。又御前の御祖父様御祖母様は御前を唯一つの希望にして御前を可愛がり下さるし、姉様も又御自分の全生涯をかけてただただ素子の幸せのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一の事あるも親無児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。先に言つた如く素直な人に可愛がられるやさしい人になつて下さい。お前が大きくなつて私のことを考へ始めた時に、此の便りを読んでもらひなさい。 昭和十九年〇月吉日 父 植村素子へ』
『追伸 素子が生れた時オモチヤにして居た人形は御父様が戴いて自分の飛行機に御守り様として乗せて居ります。だから素子は御父様と一緒に居たわけです。素子が知らずに居ると困りますから教へて上げます。 父 素子様』
植村眞久さんは、昭和19年10月26日に爆装零戦に搭乗し比島セブ基地を出撃、スリガオ海峡周辺洋上にて戦死されている。
参考引用 「いざさらば我はみくにの山桜」 展転社 平成6年
警察学校生の感想
約束の場所があることがうらやましい
私が最も感動したのは植村眞久さんのお話でした。 スライドに可愛い赤ん坊を抱いている植村大尉の写真が映し出されました。その愛する我が子に宛てた大尉の手紙は、父の愛情が満ちあふれたもので、とても胸を打たれました。この素子さんが大きくなって手紙を読んだ時、どれほど嬉しかったかどれほど感動したか、どれほど父を近くに感じることができたか、私にはとてもよくわかります。なぜなら、私も亡き母から手紙をもらったことがあるからです。
母は、私が中学3年生の時に急性心筋梗塞で他界しました。突然の出来事に、母の最後を看取ることも出来ず、母がこの世にいないことが実感できないまま時間が過ぎて行きました。それから3年が過ぎ、21世紀を迎えた2001年のお正月に一通の郵便が私に届きました。それは、亡き母から送られてきたタイムカプセル郵便でした。私が小学校に入る前、何かの大きなイベント会場で、大切な人に21世紀のお正月にメッセージを届けてみませんかということで、母が私に宛てて書いたものでした。その手紙には、当時の私の手形や足形と私の父へのメッセージがありました。美しく整った母の字を見て、几帳面だった母を思い出し、母の愛情に触れたような気がして、涙が止まりませんでした。母をとても恋しく思いました。
私は、素子さんがすこしうらやましく思えました。なぜなら、大尉が残した手紙には、はっきりと「父に会いたいときは、九段へいらっしゃい」と書かれていたからです。私も母との約束の場所があったら良かったなと思いました。素子さんは、大きくなってからその九段(靖國神社)で、舞を踊り御父様と同じ時間を共有していたと聞き、とても素敵な話だと思いました。
植村大尉に限らず、他の方々のお話にも共通して言えることは、皆とても強くて美しい家族愛で結ばれているということです。子から母へ書かれた感謝の気持ちと戦争へ行くことに対するまっすぐな気持ち、自分がいなくなっても家族を想っていることを伝える文章一つ一つに胸が締め付けられました。私と同年代の人がどのような想いで戦争に行ったのか、今まで考えもしませんでした。しかし、「自分がやらなければ、家族が死んでしまう」という状況に、もし自分もなったなら、私も同じ気持ちで戦争に行くと思います。
警察官の仕事を選んだ私に、父は反対することもなく「自分で決めた道なのだから頑張りなさい」と言ってくれました。きっと、母も父と同じ気持ちでいると思います。私をここまで育ててくれた両親や家族に恥じることのない立派な警察官になれるよう、自分の仕事に使命感を持って頑張ろうと思います。
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