4、精神も肉体も父母から受けた侭で美しく生き抜けた

市島保男少尉
市島保男少尉

市島保男日記
 隣りの室では酒を飲んで騒いでいるがそれも又よし。俺は死する迄静かな気持ちでゐたい。人間は死する迄精進しつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。精神も肉体も父母から受けた侭で美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御陰であつた。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。
参考引用 「いざさらば我はみくにの山桜」展転社 平成6年
 
海軍報道班員 山岡荘八の記録
実はそれが私の見た最初の突入部隊だったのだ。「いま、二十四機で出撃するところです」案内してくれた通信長にいわれて、私の体は一度に硬直してしまった。この若者たちが数時間後にはことごとく死んでいる。生と死はすでにこの校庭で絶対のものとして交わっているのだ。と、思った時にはその列は飛行場めざして歩きだし同時に一人列を離れた若者が白いマフラーを風になびかせながらまっすぐに私の方へ駆けだしてきた。「報道班員、これをお願いします。あなたが最も適当と思う方法で処理して下さい。いろいろとご苦労さまです。さようなら」私よりいくぶん背の低い少尉の襟章をつけた若者は早口にそういうと、ぼんやり立っている私の手に封筒を握らせ、人懐っこい笑いを残して、みんなのあとを追っていった。何を問い返す暇もない。私は封筒をポケットに納め、ウロウロと飛行場への山路をのぼってゆき、生まれてはじめて帰ることのない出撃者を見送った。そして、私が改めて封筒をしらべたのは彼等のうちの十九機が無事に突入したという無線が壕内の通信所に入ってからだった。 (さっきの若者は、もうだれも生きてはいない)私は、預けられた封筒を、遺書か手紙だと思ってしらべてみると、それは百十三円二十銭という現金ではなかったか。私はうろたえた。相手の若者は少尉、少尉にとってその金額は一ヶ月分の俸給に近い。私が、まぶたに残っているその若者の笑顔をたよりに、各隊の間を駆け回って、筑波隊のある兵曹から見せられた写真の中に彼を認め、彼の姓が「市島」ということだけを知り得たのだった。
 
参考引用 山岡荘八「最後の従軍」昭和37年8月6日から8月10日付 朝日新聞 

 

【警察学校生の感想】 

市島さんの立場で考えた、自分に警察官としての覚悟はあるか

「今、限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げまつる事に大きな誇りと喜びを感ずる」 

死を目前にした場合、自分はこの様な思いを言葉に出来るだろうか。市島保男さんの手紙の内容が紹介された時、私は自問自答しました。講話の中で、「これらの手紙には、自分がつらい悲しいとは誰も書いておらず、自分が死んで悲しむであろう人の事を書いている。」と説明がありました。正直、自分には無理だと思いましたし、私であれば死への恐怖、このような時代に生まれた不幸を嘆いていると思います。もしかしたら、特攻隊の任務から逃げ出していたかもしれません。また、市島さんは「人間は死するまで精進しつづけるべきだ」と書いていらっしゃいました。自分の死期をわかっていながら何故ここまで強くいれるのだろうと、私は頭が下がる思いでした。 
 資料の手紙を読んで、この方達の苦しみなどを思えば今現在自分自身が抱えている悩みや苦しみなどは、たいへんちっぽけなモノのように思えました。下なんか向いていられないと強く思いました。 
 私は、市民の皆さんを守る警察官として、もうすぐ一線の現場に行くわけです。大袈裟かもしれませんが、市島さんやその他の方々のように私も体を張り、時には命がけの任務をすることになるかもしれません。しかし、この講話を聴いて自分にはその覚悟がないように思えましたし、考えが甘かったと感じました。卒業まで残りわずかで、「自分が犠牲になっても」と強い気持ちで全身を満たすことは出来ないかもしれません。ただ、私達は警察官の制服で外へ一歩出たならば、逃げ出すことは出来ませんし許されません。 
 ですから、市島さんの手紙ではないですが、「我が故郷を守っていることに誇りと喜びを感じる」ことにより、恐怖心もなくなって行くのではないかと思います。この時間であらためて、自分が警察官としてどうあるべきなのか、考えることが出来ましたし自分自身を見つめ直せたと思います。 
その他にも、「心の一番奥底にある良心に忠実でありたい」「今の時期だから、生涯の心の支えとなるものを学ばなければならない」「心はすぐに汚れてしまうが、尊いものに触れることにより、心はまた清められる」など、印象に残る言葉がたくさんありました。 
そして、まだまだ警察官として気持ちが出来ていない自分は、溝口幸次郎さんが好きな格言「現在の一点に最善を尽くせ」も心に残りました。非常にシンプルな言葉ですが、いざ実践するとなると大変難しいことだと思います。国を守るためになくなった方達は、この格言のように現在の一点に最善を尽くされたのだと思います。 
 私も、残りの学生生活、そして一線に行った時、「現在の一点に最善を尽くせ」を常に心に留めて職務を全うしたいです。 

 【警察学校生の感想】

歴史を見る目

強い感銘を受ける話ばかりだったが、中でも私の感じた二つの事について書く。
一つ目の視点は、「歴史を見る目」である。私達は小学校から歴史を習い始め、長い人では大学でも歴史を学ぶ。私も歴史の授業は好きでよく勉強した。しかし、歴史という本を読み登場人物を上から覗いているだけであったように思う。そこには時間的な隔たりがあり、現代の我々の視点や生活に照らして歴史上の出来事を批評しているだけだと、大学生になってようやく気づいた。先の大戦についても、当時の日本人にとっては「大東亜戦争」であって、「太平洋戦争」などという呼称は戦勝国のアメリカによって戦後に付けられたものであることを知った。しかし、私自身も大学生になるまでは、日本は敗戦国、あくどいことをたくさんした祖先、特攻は人類史上最も愚かな行為といった、世にあふれる恥知らずな意見にとりあえず賛同し、思考停止状態だった。しかし、あるとき市島保男さんの日記を目にして、他にも多くの戦没者の遺書や辞世の句を読んで、頭を激しく殴られたようなショックを受けた。「死ににゆく」という恐怖と葛藤に打ち勝って、特攻隊員は恐ろしいほど穏やかで澄み切った文章を書いていたからである。取り乱した様子も無く、生への執着や会いたい人への願いを切々と書くでもなく、ただただ現実を真っ向から受け止めて思いを消化していることがひしひしと伝わる文章ばかりだった。文体は穏やかでも、津波のような言葉の音が耳の奥底から押し寄せてくるようで、私は壮絶な覚悟を感じていた。
 二つ目は、私のことだ。特攻隊員たちは、自分が100%死ぬことを受け止めて出撃していった。では、同じ年代の自分はどうなのか。このことを考えてしまう。「必ず死ぬ」などという生半可でない現実を、彼らのように恨みつらみのない澄んだ心で見つめ、故郷の両親を思いやることができるだろうか。私には絶対に出来ない。悔いを残し、時代をのろい、精神を病んだ人のようになって逃げ隠れするかも知れない。
市島保男さんは、「自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。」とまで言い切っている。彼と自分の精神的な差は、計り知れない。
私が立派な警察官となるために、彼らから学ぶべき事は多い。いまだに高見から歴史物語を読んでいる気になっている人々に、彼らの話を聞いて、私と同様のショックを受けてもらえたら素晴らしいと思う。