それは、市島さんの資料の中にあった。「最後の従軍」が掲載された朝日新聞。しかし、連載第2回の紙面だけであったため、その全編を求めて築地の朝日新聞社を訪ねた。縮刷版のコピーを入手、一刻も早く読みたいとの気持ちが抑えきれず地下鉄の中で読み始める。読むうちに私は嗚咽を抑えることが出来ず、席を立ってドアに向かって泣いた。
「最後の従軍」、その連載5回の内容の一部を書き抜きたい。
『あのころ、沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは、勝つかもしれないと思っていた。少なくとも、負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場には、誰もおかれていなかった。そんな時、昭和20年4月23日、海軍報道班員であった私は、電話で海軍省に呼びされた。(中略)沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった』
海軍省から、「いよいよ大きく歴史の変わるところです。とにかくよく見て置いて下さい」 と送り出され、鹿屋に着いた山岡さんが最初に見送った特攻隊の中に、前述した市島さんがいた。そして、市島さんの出撃の様子を記した後は、こう続く。
『それはこの必死部隊に、私の予期とはおよそ正反対の底抜けの明るさが漂っているという、全く思いがけないことであった。
だれも彼もが明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない・・・
そう書くことが出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい・・・・・・ 』
この言葉通り、山岡さんは誇張のない自然な筆致で隊員たちのことを記してゆく。そして、最後に取り上げているのが、西田高光中尉とその母のことであった。地下鉄の中で私が、嗚咽をこらえることが出来なかったくだりである。
『私にとって何よりも悲しいことは、彼等に出会って親しくなると、それがそのまま別離なのだというきびしさだったが、それにしても、この底抜けの明るさは、どうして彼等の肉体を占領し得たのであろうか・・・・・・
その秘密だけは、とにかく私なりに解いておきたかった。私は、やがてその質問を無遠慮に投げかけ得る相手を見つけた。筑波隊の西田高光中尉だった。彼は大分県大野郡合川村の出身で、入隊以前、しばらく小学校で教鞭をとっていたという。彼の出撃していったのは五月十一日。その二日前に(中略)古畳の上に胡座して、教え子に最後の返事を書いている彼に、禁句になっている質問を矢継早に浴びせていった。この戦いを果たして勝抜けると思っているのかどうか?
もし負けても、悔いはないのか?今日の心境になるまでどのような心理の波があったか ? 重い口調で現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。そして最後にこう付け加えた。
「学鷲(学徒出陣のパイロット)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・おわかりでしょう。 われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・」
私は、彼にぶしつけな質問をしたことを悔いなかった。と、同時に、彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、五百キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、見送りの列を離れて声をあげて泣いてしまった。
そういえば、この西田中尉ではもう一つ書き落とせないことがある。彼が飛び立った翌々日に、彼の母と若い婦人が彼をたずねてはるばるこの野里村にやって来たのだ。この若い婦人を私は今まで妹さんのように思い込んでいたのだが、日記にそう書いていないところを見ると、あるいは許嫁者か、そうなるべき人だったのかも知れない。とにかく二人でやって来た時に、部隊では当直将校が面くらって、この二婦人の相手を私に押しつけて来てしまった。私は、疲れきってたどり着いた老母を見ると真実は告げ得なかった。中尉は一昨日、前線の島に転勤したと告げ、飲物の接待をしたあとで付近を案内してやった。そして、休息所 にしていた小学校の、例の古畳を敷いた教室へはいって行って立ちすくんだ。残った戦友たちが「西田高光中尉の霊」を壁間に祀って香華をそなえてあったのだ。私はあわてて逃げ出そうとした。と、若い婦人が私の耳にささやいた。「母は字が読めません」私はその時、なんと言ってその場をとりつくろったか覚えていない。(もし、この老婦人に卒倒されては・・・) ただそれだけが気になって、娘の気丈さに感謝することさえ忘れていた。 自分では巧みに取りつくろい得たつもりで、西田中尉の母と同行の娘を伴って当直将校の控所へ戻った。そして、三人の前に茶がくまれて出されたときであった。「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます。」 中尉の母に丁寧にあいさつされて、私はいきなりこん棒でなぐりつけられた気がした。母親の持つカンを文字が読めないからといって、どうして鈍らせ得たと思ったのだろう。私も娘もこの一言ですっかり取り乱してしまったが、中尉の母は卒倒するどころか、その娘をはげましながら、ついに涙一滴見せずに去った。』
山岡荘八「最後の従軍」、連載の結びにはこうあった。
『思い出は限りない。私にはこの野里村は自分の生涯で再び見ることのできない天国のような気がする。あらゆる欲望や執着から解放された人々が、いちばん美しい心を抱えて集っていた(中略)私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界・・・それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない』
平成6年、靖國神社の大野俊康宮司は、東京・梅ヶ丘の山岡邸を訪ねている。
その時のことを、大野宮司は次のように語っている。
『おそらく、山岡さんが「徳川家康」を書き、後世に残る名筆を遺されたのは、やはりこの特攻勇士の微塵も嘘のなかった、底抜けの明るさ純粋さ、その思いで自らの筆を進められた。そのことにありはしないかと、私はそのように思うものでございます。 まさに山岡氏は、この特攻勇士の正気を受け継ぎ、偉大な作家となられました。 実は、特攻戦士の十三回忌にあたり、山岡氏は邸内の草堂の中に「空中観音」をお祀りし、供養を続けられました。 私は是非お詣りしたいと念じておりました。幸いなことに、海軍報道部員高戸中尉は私の郷土の先輩でありまして、その御案内で平成6年3月7日、世田谷の山岡家をお訪ねしました。御息女の稚子様より御殊遇をいただき、離れの一室にお祀りされた「空中観音」に心からのお参りをさせていただきました。驚いたことに、佛壇の中には白鴎遺族会作の「戦没飛行予備学生の像」と霞ケ浦の「予科練の碑」のミニ銅像が安置されておりました。山岡氏がいかに学鷲や予科練特攻勇士への迫悼の真情が深いかを知りました。』そして、『 山岡氏は別の書に
、「戦争末期、鹿児島県鹿屋の特別攻撃隊神雷部隊の報道班員として、日々敵艦隊に突入してゆく若い航空隊貢と生活をともにした。戦後、占領軍のラジオによる独善放送の悪罵に耐えていた時に、鹿屋で見送った純真な諸霊を慰める方法として、自分に出来得ることは、徳川家康の長い堪忍の生涯を書いて、戦後の同胞を勇気づけることだと決意した。」と記しておられます。 山岡氏は特攻勇士の正気をうけつぎ、その慰霊のために、あの『徳川家康』の大作を書き上げたと、明言しておられます。 戦後五十年、GHQの巧みな洗脳政策にかかり、すっかり大和魂をぬきとられてしまいました。靖國の神々に対しまことに申訳ない有様です。 山岡氏の言われる通り、堅忍不抜、現在の逆風を順風へと変えさせ、国民ひとしく靖國のこころを心として、力を合わせて祖国復興のために立ち上がらねばなりません。』
大野宮司が山岡邸を訪ねた時、私もお供させて戴いた。その記憶は鮮明で、山岡さんの『私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界・・・それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない』 との言葉とともに、心に残っている。そして、私は、己の心の支えとして「戦没飛行予備学生の像」を傍らの書棚に置き、戦没者のことを書き続けている。kokorohurihureホームページの写真が、その像である。
参考引用 山岡荘八「最後の従軍」 昭和37年8月6日から8月10日付 朝日新聞 「特攻魂のままに」元靖國神社宮司大野俊康講演集 展転社 平成24年
【警察学校生の感想】
真剣に生きていこうと決意しました
自分は歴史を誤解していたと気付いた。特攻は、21歳と22歳の青年が言い出して始まったということに驚きました。そして、戦時中の人々は皆、国の上層部に騙されていて本当の戦況なんか知らなかったと思い込んでいました。けれども、それも間違った認識だったと知ったのです。西田高光さんの話の中で、「この戦いを勝てると思っているのか、負けても悔いは無いのか」と山岡荘八さんから質問されて、西田さんは「特攻は自ら志願した、動揺する時期はもう乗り越えた。学鷲(学徒出陣組のパイロットのこと)は、一応インテリなので、そう簡単に勝てるとは思っていない。我々の命は講和の条件にも繋がっている。」というようなことを答えている。とても、感動した。自分の死が勝利に繋がらないと知っていながら、もっと先を見据えて命をかけたなんて、どれだけ悩み、どれだけ真剣に生きていたのだろう。私と同じくらいの年齢で、死ぬための訓練に励み、たとえ戦争に負けるとしても自分の命は民族の誇りになると断言する思慮深さに、涙が出そうになりました。
さらに、市島保男さんの日記には、自分の今の生活と比べて、深く考えさせられました。死ぬことを知っているのに、「俺は死するまで静かな気持ちでいたい。人間は死するまで精進し続けるべきだ。まして、大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。」と考えることは、私には想像も出来ません。講師は、「真剣に生きているのか。」と私達に問いかけた時、まるで市島さんに言われているようで胸に言葉が突き刺さりました。今の生活をこなすだけで疲れているようでは、国のため未来のために死んでいった人達に申し訳ない気持ちとなりました。私も真剣に生きて、国のため未来のため、もっと頑張れるはずです。この制服を着て警察官として恥ずかしくない行動を常にとっていきたい。そして、今日の日本を作ってくれた先人への感謝を忘れず、日本を守りよりよい日本を作ることに寄与したいと思います。もっと、国のため、未来のために真剣に生きていこうと決意しました。
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