9、日露戦争 水師営の会見

中央が乃木・ステッセル両将軍
中央が乃木・ステッセル両将軍

日露戦争旅順開城

 旅順攻略戦は、日露戦争史上最大の激戦であった。

しかし又、日露両軍は戦場での勇敢さを互いに称え合うという、武士道と騎士道の二つが一つとなって「旅順の魂」とも呼ぶべき歴史の華を咲かせた戦闘でもあった。

 日本の兵士が旅順から父に宛てた手紙には、一露兵の勇敢さを伝えたものがある。

「もう斃れたかと爆煙のすき間よりじっと見守るに、彼は悲壮にも、まだ腕によりをかけて奮闘している。今度とは見れば彼は尚、砲の転把を握りつつあり、その剛胆、その勇敢、ああ、われ何の怨みか彼にある、彼も祖国の為に身命をなげうっていると思うと、不測にも涙は征衣を濡らした。」と、露兵の姿に涙を流しサムライ心を寄せている。

 又、旅順・松樹山砲台の奇襲作戦において、世に言う白たすき隊の小隊長が露軍砲台へと先頭第一に飛び込み、前へ前へと部下を指揮しつつ戦死された。そのありさまが確かめられるように、遺体の右手は日本刀を握り長く伸ばされていた。そして、その後方には一群の日本兵の戦死体があったのだ。この日本刀返還の要請を、乃木将軍から受けた露軍将校は次のように応えている。「我が砲台内で見事な最期を遂げた日本将校に対する、我が騎士道の義務であり礼儀と思います」。同様に要請を受けたステッセル将軍も同感だとされた。

 かくして旅順は開城、戦いは日本の勝利に終った。

 明治3815日、旅順近郊の水師営にて、乃木将軍とステッセル将軍が会見する。これに先立つ同月3日、乃木将軍は山縣参謀長より次の電報を受ける。

「敵将ステッセルより開城の提議を為したる趣、伏奏せし処、陛下には将官ステッセルが祖国の為に尽くしたる勲功を嘉し賜い、武士の名誉を保持せしむる事を望ませらる。」

この勅命のもと、会見は行われた。

ステッセル将軍

「貴国皇帝陛下よりの優渥なる御思召しを伺い、この上もなき感激を催せり。」

さらに「我が子は旅順口には居らず。ただ父は戦に斃れ母は篭城中に亡せし、六人の孤児を妻とともに養い居る外には家族とてもなし。承れば、将軍の二児には共に戦死せられしとかや、私が児を思う情より酌みて、親たる将軍の情たるや如何ばかりぞと」と、目に涙をためて語った。

乃木将軍

「昨日、将軍が父母なき孤児を愛しみ、あたかも六人の孤児の真の父母の如く居れる趣を聞き、将軍夫妻の慈悲深きを我が心にしのびて居りけり。さて、我が二児のことについては、代々サムライの家の事なれば、天皇の為に身を殺すは当然なり。二児の如きは少しだに意に介しおらず。」と、答える。

ステッセル将軍

「然りとは、健気(けなげ)なり。国家のために家族的幸福と利益とをことごとく犠牲に致さるとは、真に大人(たいじん)の道なり。ああ、貴国の将士の勇敢なる実に因る所あるを悟れり。」

乃木将軍

「勇敢なりとは、貴国の将士の事なり、健気とは将軍の言行なり」

 昭和二十年の大東亜戦争終戦まで、国を挙げて愛唱された「水師営の会見」(作詞 佐々木信綱)の一節は、こう歌っている。

「きのふの敵はけふの友、語る言葉もうちとけて、我は褒(たた)へつ彼の防備、彼は讃へつ我が武勇」

「水師営の会見」への共感を持ち得た当時の日本人。その心根を、はたして我が心に響かせることができるだろうか。現代人への大切な問いかけのように思うのである。

 

【警察学校生の感想】

 

相手への敬意を忘れない、誇りを傷つけない

 

今回の講話では、戦争で命をなくしていった人々の話を聞くことができました。最初に、日本兵とロシア兵が一緒に写っている写真を見ました。この写真を撮影した時期は、日露戦争の最中であること聞いて驚きました。又、その際に戦闘で死んだ両軍兵士の遺体を片付けていたということを聞いてさらに驚きました。戦争中であれば敵対するもの同士が共同で作業をするといったことは、ほとんど無いような気がします。また、戦争終了後の会見(水師営の会見)で、ロシア側に正装での出席を認めたところに素晴らしさを感じました。相手に対しての敬意を忘れないということと、相手の誇りを傷つけないということを実践しているのを感じました。私たち警察官も、相手に接する際には失礼の無いように丁寧な対応が必要となります。礼を失しないためには、相手に対する敬意を心に持つことが必要であると感じました。頭ではわかっていても、実際に行動に移していくことは難しいと思います。その相手が、戦争の敗戦国であれば、なおのこと実践しづらいと思います。それを何事もなかったかのように行なったところに、すごさを感じました。日本には、「罪を憎んで、人を憎まず」といった言葉がありますが、この会見では、「戦争というものを憎み、人を憎むことはしない」と、言っているのではないかと感じました。自分も警察官として「罪を憎んで、人を憎まず」との言葉を、心にとどめておきたいと思います。

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コメント: 1
  • #1

    片岡 まりこ (水曜日, 17 1月 2024 21:34)

    曽祖父が 多言語を操る人だったそうで この水師営の会見において 日露間の通訳を務めたと 私の小中学生の頃(40年以上前)、母方の祖父から何度か聞きました。ふーんと聞いていましたが 最近このような武士道、騎士道の事を知ってから もっと詳しく教えてもらえばよかったと思います。祖父は 2012年に97歳で亡くなりました。いくつかの記事を読みましたが 曽祖父の名はないですね。「杉山 ごさぶろう」と記憶していますが。