「沈勇」佐久間艇長の精神
戦前、「修身」の教科書には佐久間艇長に関する記述があり、「沈勇」という徳目が子供たちに教えられていた。
佐久間勉は、明治12年に福井県小浜にある前川神社の神職家に生まれている。海軍兵学校卒業後に日露戦争に参戦し、41年28歳で国産初の第六潜水艇長を命じられる。2年後の4月15日瀬戸内・岩国沖で潜航訓練中に艇は沈没、部下乗員13名とともに殉職された。
第六潜水艇は全長22メートルと最も小型な潜水艇で、航続距離は22キロと短かった。この距離を延ばすことを目的に、潜航状態のままエンジンを回すという実験に挑戦中、給気塔から海水が浸入し沈没している。
救難作業の結果、潜水艇は引き揚げられ、内部調査が行われる。佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死亡。残り2人は本来の部署にはいなかったが、ガソリンパイプの破損場所で死亡しており、最後まで破損の修理に尽力していたことが判明している。
当時ヨーロッパでは潜水艇の沈没事故が多発し、引き揚げてハッチを開くと乗員が脱出用のハッチに群がり死亡している状況(他人より先に脱出しようとして乱闘の跡など)であったため、帝国海軍関係者も同様の状況を心配していた。ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めて死亡していたのだった。
この遺書は約1000字にもおよぶもので、浮上への万策が尽きた後に、司令塔の「のぞき孔」からもれるわずかな光を頼りと、有毒ガスが充満し息苦しくなる中で記されている。
その内容の要点は、
一、 部下を死なせたことへの謝罪と全員が最後まで沈着に任務を果たしたこと
二、 この事故が将来の潜水艦発展の妨げにならないことへの配慮
三、 事故の原因と事故発生後の詳細な経過と処置
四、 今後の潜水艇乗員の採用に関する意見(引き続き抜群中の抜群の者を)
五、 乗員遺族への配慮と世話になった人々への御礼
そして、遺書の最後の項には
「謹んで陛下に白す、我部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はんことを我が念頭に架かるもの之あるのみ」と、死の直前まで沈着冷静に自己の使命と責任を果たした上で、部下の遺族への思いやりを示している。
第六潜水艇の事故及び佐久間艇長の遺書は、国内だけでなく直ちに欧米各国にも伝えられ、英国の新聞は「日本人は体力ばかりか道徳及び精神上も凄い、このようなことは世界に例がない。」と絶賛している。こうして、国内では教科書や軍歌として広く取り上げられてゆき、海外でも、米国国会議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、S.ルーズベルト米国大統領は自身の感動から国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版を設置。それは、大東亜戦争が勃発した後も撤去されていない。更には、イギリスの王室海軍潜水史料館においても、佐久間と第六潜水艇は展示説明されたのであった。
「壮絶なる覚悟」を共有した東日本大震災時の警察官たち
平成26年5月宮城県警察本部にて幹部警察官に対しての講話の際、佐久間艇長についても語り次の感想を得た。この文章から、東日本大震災時の警察官にも佐久間艇長に通じる「壮絶なる覚悟」があったことを知れたのだった。
「三月十一日午後二時四十分を迎えた直後のあの瞬間、多くの警察官が自分自身の中で一つの覚悟を持ったと思います。そして、午後四時前後の大津波の到来と共に、各自が持った覚悟は、現実味を持って行きました。あの時、我々警察官の前に展開されたのは、目を背けたくなるほどの惨状だったはずです。その修羅場の中で、黙々と警察活動を続けてきた我々警察官には、やはり「覚悟」は残っていたのだと思います。昨今、韓国における客船沈没事故の有様をテレビニュースで垣間見て、あの311の惨状での警察官を思い起こす都度、私は、日本人であること、日本の警察官であることに、やはり誇りを感じます。誰も逃げなかったし、誰も後ろ指をさされることはなかったのですから。」
佐久間艇長が我々日本人の副意識の中に残した「勇気ある魂」は、星霜移り占領政策の汚染を受けつつも、今日猶も生きて我々の心中にある。
しかし、第六潜水艇沈没事故発生の当時にあっても、「生きたいという本能の優位」を語り、英雄を認めぬ日本人はあったのだ。これに対し一文を与え、艇長らの勇気を讃えたのは、文豪夏目漱石であった。その内容については、何れ紹介したいと思う。
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