12、三島由紀夫が涙した古谷真二さんの遺書

古谷真二中尉
古谷真二中尉

昭和20年4月29日、神風特別攻撃隊「第五昭和隊」隊員として鹿屋基地を出撃し沖縄東方海面にて戦死された小泉宏三海軍少尉の遺書である。

『お父さん、お母さん、私が特攻隊員と判って随分驚かれたことと思います。

 かねて私の命は無きものと覚悟されておられた事と思いますが、それでも私が戦死することが確実となれば、あらためて未練のような情も起り、仲々あきらめもつかぬ事と思います。成程私は小泉の家にとって大切な人間であったに違いありません。お父さんやお母さんの希望も多く私に掛かっていたことでしょう。さんざんお父さんお母さんの御世話になって大きくして戴いた、私にはそれが良く判ります。

 然しお父さんお母さん、今日本は正に存亡のときにあります。米国はその兵力の殆んど大部が集中して、沖縄に侵攻して来ました。これに対して日本も、その全兵力を傾けてこの撃滅を期しているのです。そしてあらゆる点に於て困難な条件の下にこの戦局を打開し、一大攻勢に転ずるには、その方法は唯一つ、特攻に依る外はなくなったのです。

 この沖縄決戦に集中して来た敵大機動部隊の大部を屠り得たらその時こそ、日本の勝利は疑いありません。要言すれば勝敗の一大神機は正にこの沖縄決戦にあるのです。

 このときに当り日本を救う道が特攻隊以外になかったとしたら、お父さんお母さんは如何なる道を執られますか。言うまでもなく光栄ある特攻隊員の一員となられて祖国日本の為に立たれると思います。私の選んだ道が即ち之です。何も私がやらなくとも特攻隊員となる搭乗員はいくらもあるだろうにと考える人もあるかも知れません。だがそう言う考え方は私の心が許しません。この戦争遂行に一体何万の尊い人命が失われた事でしょう。これら靖国の神々の前にも、そして幾多の困苦と闘いつつ生産に敢闘しつつある人々に対しても、絶対かかる私的な考えは許されません。

 俺がやらなくて誰がやるか、各々がこの気持ちで居なかったら日本は絶対に負けると言っても決して過言ではありません。そして国が敗れて何の忠がありましょうか。七生報国とは国があって始めて言えることです。七生報国の決意を果たすべき時は今、正にこの一期にかかっているのです。

 お父さんお母さん、私を失われることは悲しいことでしょうが、このような事情を良くお考えになってください。そしてこの決戦の一つの力に、自分の子がなった光栄に思いを及ぼして下さい。このような事を申すのは私の老婆心であるかもしれません。だがいざ本当に息子が死んだとなると新たな悲しみが起きるのではないか、そして又身体の弱いお母さんなぞ御病気になられるのではないか。(勿論そんな事はないでしょうとは思いますが)と思って敢て筆をとりました。』

 父母への断ち難い思いや己の人生への未練を超えて、「何も私がやらなくとも特攻隊員となる搭乗員はいくらもあるだろうにと考える人もあるかも知れません。だがそう言う考え方は私の心が許しません。」と書いた小泉少尉。「戦艦大和ノ最期」の著者吉田満は、「自己に課せられた役割への誠実な献身」と、当時の青年たちの責任感について書いている。

 戦争の記録は現代人に、「国家社会への責任感と肉親への私情は対立するものなのかどうか」、「忠」と「孝」とを問いかけている。

 慶應義塾大学から学徒出陣、昭和20511日に「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として一式陸上攻撃機に搭乗し鹿屋基地を出撃、南西諸島方面洋上で戦死された古谷真二海軍中尉。これは、彼が大学在学中に両親に宛てて書かれた遺書である。

『御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷(きしょう)せずして無事帰還の(ほまれ)(にな)はんこと、朝な夕な神仏に懇願すべくは(これ)親子の情にて当然也。しかし、時局は総てを超越せる如く重大にして(いたずら)に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義(ちゅうぎ)の誠を(いた)さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべてを一身上の事を忘れ、後顧(こうこ)(うれい)いなく干戈(かんか)()らんの覚悟なり」

 三島由紀夫は、この遺書を読み「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と言って、声を上げて泣いたという。

「忠義を尽くしきることが親孝行になる」と古谷さんは決心している。

 この「忠孝一本」の精神の涵養こそ人間教育の根本であるとしているのが、「教育勅語」。その冒頭には、

「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々ソノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」

君民一家のごとき日本であれば、君に忠に親に孝なるのみならず、忠と孝とを兼ね備えて君に仕え奉ることができる。万世一系の天皇をいただいて忠孝勇武の臣民があり、一心同体となって、国を守って来ることこそ日本の国柄である。教育の大事は、人の道を守るようにしつけることであれば、第一に忠孝の道を教えて、君と親とによく仕えることを教えなければならない。国民が皆よく忠孝の人であれば、自然と国は安らかに治まってゆくのである。これが、その大意である。

戦後教育は「教育勅語」を捨て、特に「忠孝一本」の思想を敵視した。最も親思いの人こそが、自己に課せられた役割への誠実な献身者であった歴史などは忘れ去られた。その結果はどうか。一例として、靖国神社参拝に関し小泉純一郎総理とマスコミとのやり取りをあげたい。

 平成13年の夏、小泉総理が靖国神社参拝をするにあたり、何度も口にしていたのは、特攻隊の遺書に感動したことであった。特攻隊の人たちのことを思えばどんな苦しいことでも耐えてがんばれるといった内容であり、大方の心ある国民の共感を呼んでいた。そんな中、「911」と呼ばれる米国同時多発テロ事件があった。テレビ番組で小泉総理に投げかけられた質問は次のようなものだ。「総理は、特攻隊の遺書に感動しその心情が理解できるそうですが、このたびのテロの特攻攻撃も理解できるのですか。」さすがに総理は、両者が全く違うことを説明するが、日本人として、あのテロ行為と日本の特攻隊を同じと捉えるとは何と言うことか。平時の一般人に対し市民を装ったテロ行為と、戦争時の軍人による戦闘行為との区別も理解していない。おそらく、一編の特攻隊員の遺書も読んだことがないのだろう。しかし、このような誤解は、今でも尚、意外と多くの人の心にあるようにも思う。その意味でも、歴史の実相はしっかりと語られなければならない。

教え子である古谷真二さんの「忠孝一本」の決意を讃え、同様に息子の出征を誇りとした慶應義塾の小泉学長について、次回記すこととする。

参考引用 「若き特攻隊員と太平洋戦争」森岡清美・吉川弘文館・平成7年 

     「いざさらば我はみくにの山桜」展転社・平成6