感動を覚える師弟愛
小泉信三氏は、その高潔なる人格を信頼され東宮御教育常時参与として、皇太子明仁親王殿下(現在の上皇陛下)の教育責任者となる。かくして当代一の人格者として尊敬を集めた同氏が残された数々の格言は、今日に至るも多くの青年たちを導いてくれている。
・人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか
・スポーツが与える三つの宝 練習、フェアプレイの精神、友
・どんな仕事についても、自分の品位を高め、心を豊かにする教養や趣味を身につけることは、大切なことです
・人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと
・グッドマナーの模範たれ
・百冊の本を読むより、百人の人物に会え
・すぐに役立つ人間はすぐに役に立たなくなる
・教室の神聖と校庭の清浄を護れ
・母校を愛するものは国を愛す
敗戦後の占領政策の嵐の中、教育者の多くも粛正された。しかし、小泉氏は、戦前と変わらず、大きな信望を集める。真の人格者として認められていたからであろう。前回、その遺書(kokorohurihureブログ12番)を紹介した慶應義塾生の古屋真二さんに対し、小泉学長は次の書簡を送っている。
『拝啓 今日図らずも塾にて拝顔、神雷隊員として近々御出発の由承(よしうけたまわ)り乍(なが)ら、咄嗟(とっさ)の事にて、ゆるゆる御名残(おなごり)を惜しむいとまもなく御別れ致し、残念の至りに存じます。あとで、御一緒に食事をすればよかつたとか、其他様々の事を思ひました。国民の一人として感謝の言葉もありません。僕は永久に君の名を忘れません。また君を養育なされた御両親様を衷心より尊敬申し上げます。人の子としてこれほどの親孝行はないと思ひます。どうか心安く、また心静かに十分の働きをなされ、君国のために御尽くし下さるやう心から祈ります。慶應義塾は君のやうな方を出したことを誇りとします。どうか此事を心に留めて下さい。 昭和十九年十二月十三日夜 小泉信三
海軍中尉 古谷眞二様 』
小泉学長は、「母校を愛するものは国を愛す」との格言のままの信念によって、教え子の出征を讃えている。更に、 古谷さんの「大君に対し奉り忠義(ちゅうぎ)の誠を至(いた)さんことこそ、正にそれ孝なりと決し」とした心情を、深く理解した上でこう記している。
『人の子としてこれほどの親孝行はないと思ひます。どうか心安く、また心静かに十分の働きをなされ、君国のために御尽くし下さるやう心から祈ります。慶應義塾は君のやうな方を出したことを誇りとします』と。
学徒出陣から50年、学長たちの詐術
言葉は交わさずとも、出征して行く塾生と学長の間には、心通い合う師弟愛があった。ところがそれから50年。師弟愛など知らぬがごとき出来事があったのだ。学徒出陣50年に当たる平成5年、全国272校の私立大学の学長らが、かつて大学が出陣学徒を歓呼の声で送り出したことについて反省する共同声明を出したのだ。このことは、kokorohurihureブログ45番に詳述したので、ここでは関西大学の谷沢永一教授の反論の一部だけを引く。「昭和18年は日本がいまだかつて体験したことの無い非常時であった。学徒出陣はせっぱつまった国家のやむをえない要請であった。」、「そのとき学長の職にあった者なら誰でも、率先して勇ましく学徒を励まし、りんりんとして壮行会を催さなければならなかった。それが歴史の真実というものである。」、「自分たちの正真正銘の先祖を責め罵ることで、後世のみずからは正しいのである立派なのであると売りこんだのだ。歴史上の日本人を貶める罵詈雑言によって、自分を高みに押しあげるという詐術である。」
出征してゆく教え子を我が子を、誉めたたえ誇りとした塾長
塾生の古谷さんへの書簡を認めた時すでに、小泉信三氏は長男を戦争で亡くしていた。同氏による著書「海軍主計大尉 小泉信吉」(文藝春秋社)には、父として出征する息子への手紙が記録されている。
『君の出征に臨んで言って置く。吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。(中略)二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥ずかしくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 父より信吉君 』
小泉氏は我が子に対しても、古谷さんへのものとまったく同様の考えであったことがわかる。「君の出征に臨んで言って置く。吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。」「人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。」そして、こう結ぶ。「吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する」と。
小泉格言「母校を愛するものは国を愛す」が教え示すところは、親兄弟を愛するものは、隣人を愛するものは、郷土を愛するものは「国を愛す」ということなのだ。
戦前まで、日本の人間教育の根本であった教育勅語では、これを「忠孝一本」として徳目の一つにしている。
占領軍によって否定され、教育現場から排除された「教育勅語」。その徳目の中でも、最も厳しく否定されたのが「忠孝一本」の考え方であった。それだけに、「忠孝一本」などと口にすると顔をしかめる人は多い。しかし、ウクライナ国民の国防意識や愛国心の実相を知る機会が多い今こそ、何故に「忠孝一本」が教育勅語の徳目であったのか、そして戦後に否定されなければならなかったのかを考える好機でもある。 警察学校生の感想を見ても、「忠孝一本」の精神に至ることの難しさを感じつつけていた。しかしながら、小泉学長の考え方は我が子同様に教え子にも愛情深く向けられていた事実によって、古谷真二さんの遺書への理解も深まっているとも実感している。
最も、親思いの人こそが、国を思う真情の人であった史実を教え示せば、心の中にある孝心など良い心が呼び起こされるに違いない。
忠義は、親孝行と同じこと
大東亜戦争が最終局面を迎えた頃には、日本軍の劣勢は明らかで日本は窮地に立たされていました。国内物資が乏しく持久力が無い日本軍は戦力を確保するのに必死でした。そんな中で、片道の燃料だけを積み敵艦目がけて飛行機ごと突っ込むという捨て身の攻撃を行う特攻隊がつくられました。この戦術は、軍上層部が発案したものだと思っていましたが、実際は20代の若い士官によって考案されたと知って本当に驚きました。軍事国家を目指した日本による無茶な戦術だと思い込んでいました。しかし、特攻隊は若者たちが日本を心の底から愛し国のため出来ることは何かを考えた末の結論でした。国だけでなく自分たちの家族を守りたいとの強い気持ちよるものだと思います。
特攻部隊員として戦死した古谷真二さんは遺書の中で、「大君に対し奉り忠義(ちゅうぎ)の誠を至(いた)さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべてを一身上の事を忘れ、後顧(こうこ)の憂(うれい)いなく干戈(かんか)を執(と)らんの覚悟なり」と言っています。これは、国家に対して忠誠を尽くすことが親孝行になるとのことで、自分のことは考えず国に忠義を尽くすことを考える。そして、忠義は親孝行と同じ事であるとしています。古谷真二さんは私と同じ23歳とは思えないほどの精神力の持ち主です。国のためとはいえ、どうしても自分を一番に考えてしまいがちになるのは、人間として当たり前のことかも知れません。
しかし、ここで学ぶべき事は、自分のことしか考えられない人間は何時までたっても成長できないということです。相手を思いやる気持ちなくしては、人間として成長できません。私は警察官として県民の為に仕事をしなければならないので、自己犠牲の精神が必要で、古谷真二さんの言葉と重なる部分があります。その意味で、古谷さんの遺書は身にしみました。自分の体を張って県民を守って行く気持ちが、より一層わいてきました。
時代こそ違いますが、大和魂を持って国に忠義を尽くす精神は受け継がれているはずです。現代は平和な時代ですので、戦争時代の精神論は受け入れがたいものかも知れませんが、国を愛する気持ち、家族をはじめ相手を思いやる気持ちについては、現代も最も必要なものの一つです。自分は警察官として、相手を思いやる精神を忘れずに仕事に生かしていければ良いと思います。
【警察学校生の感想】
特攻隊員の訓練は死ぬための訓練でした
今回の講話を聴くまで、正直私の戦争に対するイメージは血なまぐさく人間のわがままと欲望が混じっているもので、関わりたくないものとしてとらえていました。その中でも、特攻隊員は何を思って死んでいくのか理解できませんでした。彼らをそこまで追い詰めるものは、一体何だったのか、どうしてそこまで命を張るのか共感する事が出来ませんでした。
しかし、私の既成概念を良い意味で壊すことができたと思います。彼らには、ある共通の決意がありました。それは、「忠」という一文字です。心の中にある良心に従おうとすることです。それは、生れた時から全身全霊で自分を守ってくれる両親に感謝することから始まると説明がありました。「忠孝一本」という言葉は、忠義と孝行は一つであるとのことでした。「親孝行できない者に何が出来る、他人を思いやることすらできない。」との言葉に、私は後悔しました。現在まで健康で何不自由なく過ごしていることを、当たり前と感じていたからです。今こうして過ごせるのも、父母を始め家族や周りの人々が助けてくれたおかげです。その人達が、平和な毎日を送ることが出来るよう努めるのが、特攻隊員の「忠」の心に通じると思いました。植村眞久さんにあっては、生れて間もない愛児の為、短い生涯をこの戦争に捧げました。これからの時代を担う子供のためにも、今できる事を全うした植村さんには、私達も感謝しなければなりません。
特攻隊と警察官、時代と職種は違えども国民のため県民のために職務を全うすることに変わりありません。国民県民といった大きなくくりでは実感が湧きませんが、身近に居る両親、友人、そして大切な人のために体を張って彼らを守る。そのためにも、私達や特攻隊員は日々様々な訓練を行い行っていました。しかし、私達初任科生の訓練は自らを危険にさらすことはありません。特攻隊員の訓練は死ぬための訓練でした。私だったら、そのような訓練に参加したくもありません。しかし、彼らは自ら志願し厳しい訓練の後に戦場へ飛び立って行きました。私に無くて彼らにあるものは、「本物になろう」とした固い決意だと思います。決意のない人生はいたずらに過ぎるだけであり、私は本物の警察官になろうとの決意が維持できていないと感じました。今までの23年間の人生を、いたずらに生きてきたように思えて反省します。今からでも遅くはないので、父母そして皆が安心安全な生活を共有できる社会を形成する仕事に関われたことを有難く思い、警察官という素晴らしい職業に就けたことを感謝して、今後の職務遂行の際に常に心に留めることを決意しました。
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