今回は、富澤幸光さんの遺書について記したいと思うが、先ずは警察学校生の感想から紹介したい。
【富沢さんは泣きながら手紙を書いたのではないか】
戦争で亡くなられた一人一人の人生や命について、考えさせられたのは初めてかも知れません。戦争で多くの方が国家の為や家族のために尊い命を落とされたことは、知ってはいましたが、その心境や状況そして内面的なものまで知ることはありませんでした。自分の死を前に、何を思っていたのか。私は、家族への愛が感じられました。最期まで家族のことを心配し、自分は平気であるという姿勢。国や家族を守るためには自分の命など惜しくもないとの姿勢。どれもが、今の日本には足りないものばかりです。今の日本は特に、家族への愛が足りていないのではと感じ、正直で率直な家族への思いを伝えた記録を見て自分が恥ずかしく情けなくなりました。
私が一番印象に残っている方は、富沢幸光さんです。家族に宛てた手紙には、自分が戦死した後のことを想像し、家族が自分の死に対する悲しみを少しでもやわらげようとする気持ちがひしひしと伝わって来ました。きっと、富沢さんは家族を想い泣きながら手紙を書いたのではないか、そのように感じられてなりません。今生きている瞬間を、この先に自分の死が待っているという恐怖に怯えながらも、毅然と生活している。こんな辛いことがあってもいいのか、そんなことを深く考えました。 これから先、戦争で亡くなっていった方々を忘れることなく、その方々の御陰で今の私達がいることを忘れず、日々大切に力強く生きていこうと思います。
【母が自分を信じてくれる】
私は、富沢幸光さんと同じ北海道出身で同年齢です。境遇は似ていても、自分の心は彼には到底及びません。手紙では、両親が悲しまないようにと気を使い、自分は死んでも靖國神社にいることや、母が自分を信じてくれるから自分はやれるのだと言っています。私は、このように思って生きた事はありません。毎日を惰性で生きていた自分が、とても恥ずかしい。今の日本の豊かさは、日本を守ろうとして死んでいった人達によるものだということを忘れて生きてきました。現代の多くの人も忘れてしまっていると思います。だから、肉親を殺したり、傷つけたり、誰でも良かった等と言って罪を犯す人もいるのだと思います。世の中は変わってしまい、靖國神社に参拝することで責められる大臣もいます。しかし、それは日本にとって大事なことだと思います。戦争を肯定するための参拝でなく、自分たちを守るために戦ってくれた人々、素晴らしく親孝行な人々に御礼に行くことが悪いはずはありません。警察官は死ぬことで誰かを救うという職ではありませんが、自分がやらなければという考えは同じです。今回感じた心の痛みを考えて、忘れずに生きて行きます。
富澤幸光さんの遺書
昭和20年1月6日、神風特別攻撃隊「第19金剛隊」隊員として「爆装零戦」に搭乗し比島マバラカット基地を出撃、リンガエン湾にて戦死された富沢幸光海軍少佐の遺書である。
『お父上様 お母上様 ますます御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。お正月もきました。幸光は靖國で二十四歳を迎へることにしました。靖國神社の餅は大きいですからね。(中略)父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思い出話をするのも間近でせう。靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖國で待っています。きっと来て下さるでせうね。本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ、父様、母様が死んでしまう。
否、日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきっとやります。(中略)母上様の写真は幸光の背中に背負っています。母上様も幸光とともに御奉公だよ。いつでも側にいるよ、といって下さっています。 心強いかぎりです。』
参考引用 「いざさらば我はみくにの山桜」展転社 平成6年
富沢さんの母上様は、どれほどの涙を流して息子の遺書を読んだことだろう。
戦争で亡くなっていった息子を思い、北海道から沖縄から全国各地から、母は息子の好物だった御馳走をもって九段のお社をお参りされた。お餅もあった、おはぎもあった、煮しめもあった。金沢からタクシーに布団を積んで来た母もいた。
島倉千代子さんが歌った「東京だよ、おっ母さん」の歌詞は、ありのままの遺族の思いだったのだ。
『やさしかった 兄さんが 田舎のはなしを 聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれが あれが 九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも』
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