米国の無差別爆撃は戦争犯罪
占領軍が名付けた戦犯の罪を着せられ、無念の内に刑場の露と消えられた方々を、日本国の法律は法務死としている。その経緯の解説は本稿の目的でなく、法務死からお調べ願いたい。
しかし、現在の日本の繁栄と平和は、戦場で壮烈な戦死をされた方々と同様に、法務死された悲劇の方々のお蔭であることを、是非とも認識して戴きたい。
法務死されたお一人、陸軍憲兵中尉・本川貞さんのお話である。
昭和20年3月10日、東京大空襲。アメリカの不法極まる無差別爆撃に十万近い都民が亡くなっている。
丁度その時、本川中尉は東京憲兵隊本部外事班長であった。たまたまB29・1機が茨城県の山林へ墜落。3人の搭乗員はパラシュートで脱出し、大火傷の1人は土浦憲兵隊に収容され、翌日、東京憲兵隊本部の本川中尉の許に移送されてきた。中尉は八方手を尽くしたが、前夜の大空襲で、どこにも空いた病院はなくただ呆然と見守るほかに手立ては無かった。
夕刻になり「全責任は司令部がもつ」と東部軍司令部が身柄を引取ることとなり、中尉も同行。すでに米兵は手の施し様もない状態で死亡したのであった。
やがて終戦となり、年が明けた4月。この事件に関係した7人の1人として、本川中尉は巣鴨拘置所に拘引された。横浜軍事法廷で簡単な調べがあり、中尉一人だけが極刑を宣吉され、昭和23年7月3日巣鴨拘置所で刑は執行されている。
本川中尉は歩兵の一兵卒からたたき上げ、厳しい憲兵試験に合格、中尉まで昇進された生真面目一本の人柄だった。妻との間には一男二女があり、41歳の働き盛りのことであった。
本川中尉の御遣品の中に、紙とてない当時に自分の食事を割いた御飯粒でトイレットペーパーを貼り合わせ、その粗末な紙に絵をかき、歌集、文集として綴ったものがある。
6枚ある毛筆の絵には、自分の顔の絵が1枚、独房内部の写生画1枚、楽しい家族団欒の絵2枚、家族の正月団欒・親族との正月団欒画各一枚が描かれてある。おそらく、写真も撮れない身の上、可愛い幼子たちに自分の顔を覚えさせ、楽しい団欒の日々があったことを忘れぬ様にと、切なる父親の必死の願いをこめたものであったろう。
その外、歌集1冊、書簡2通、自叙伝1冊、随筆1冊、「思ひ出の記」等文集21冊、写経2冊、家族からの手紙類一綴が遺されてある。
160首の歌集の中に、判決後の心境を詠んだものがあった。
『諦めて諦めきれぬ諦めを なおまた諦めするが諦め 』
悲痛この上ない一首であった。 また、最後まで肌身から離すことのなかった写真(奥様と幼子3人)、そして遣詠には涙を禁じ得ない。
『遙々と我を尋ねて幼子の 会はずに帰る心淋しき』
ノンフィクション作家・上坂冬子の著書『償いは済んでいる 忘れられた戦犯と遺族の五十年』には、本川中尉は次のように記されてある。
『事件に関連した七人の中で本川中尉だけが処刑された理由は裁判記録を読んだだけでは不明といっていいでしょう。それほど荒っぽい裁判だったということになるかもしれません。私が訪ねたころ未亡人は風の便りに、夫がどんな罪に問われたかをざっと承知しているようでした。「あのとき、主人はどうすればよかったのでしょうか」と、未亡人から問いただされて私は返事に詰まったのを思い出します。東京空襲の翌日のたった一日のできごとでした。あの状況下でアメリカの飛行士を助ける方法があったとでもいうのでしょうか。 戦時中の残酷な話を聞いて、ひどい、ひどいと批判するのは簡単です。しかし、調べれば調べるほど私には簡単に批判すまいという思いが湧いてきます。 批判する前に少なくとも、ならばどうすればよかったのか、あるいは自分がその場にいたらどうしたであろうか、と自分で自分に問いかけることにしています。
未亡人は昭和63年(1988年)に70歳で亡くなりました。 未亡人としてはこの世を去るまで、さあ、これから一家五人で平和に暮らせるぞと意気込んでいた夫を突然奪い取られたあの日を忘れられなかったことでしょう。
同時に、無抵抗の東京都民に向かって無差別爆撃をした側がどこからも罪を問われなかったことも、すべての責任は司令部でもつからといわれて命令どおりに行動した夫だけが処刑されたことも、彼女にとって死ぬまで疑問のままだったにちがいありません。』
『償いは済んでいる』その終章には、
『50年前の補償問題は国と国との間で、すでに解決しています。侵略論議や補償論議を交わすな、とはいいません。しかし、大事な点がごちゃまぜだったり、見落とされたりしているのを私はただしたいのです。くどいようですが、45年前に、償いは済んでいます。日本社会の底辺で名もなく貧しく生きてきた人々の命と引き換えに、平和への調印が済みました。戦争の償いとして夫や父の命を奪われた人々が黙って耐えているからといって、あのときの『いけにえ』を無視していいはずはありません。
戦犯などと軽々に発言する日本人がいまだにいることが残念でなりません。悲慣の涙の中に処刑された方々や遺族の気持ちに対し、思いを寄せるという心が大切でありましょう。
歴史はつぶさに、そして、その時代その人の立場になって考えることから見なければならないことを強く強く感じます。』
【警察学校生の感想】
「自分が、その当時にその人のその立場だったらどうしたか?」
この言葉は、一時の想像では難しく深い意味があるのだと実感しました。そして、自分のことで精一杯であるうちは、相手の立場で考えることは難しいことも。
今回は、60年前の同年代の青年達が書き綴った文章に触れ、壮絶な覚悟や静謐かつ寛大な心を知りました。これまでも、特攻隊員の手記などを目にすることがあり、その達観し俗心を脱した崇高な精神を持っていた人々は、自分とはまったく違う存在で特別な人間だと思っていました。
しかし、母への率直な思いや若者らしい快活な心を持った普通の青年の姿を知って、当時の青年も自分と同じ人並みの幸せを願う一人の人間なのだと思いました。
特攻隊は、捨て身の必死作戦で、とらえようによっては母国への壮絶な忠誠心や勇気によるもので自己陶酔とも言われます。が、いざ他人事でなく考えてみると、生半可な覚悟ではとても実行できないと強く感じます。ご多分に漏れず、この作戦は窮地に追い込まれた軍上層部が兵士を駒として利用するために考えられたものだと誤解していました。しかし、事実は、私より若い青年が血書嘆願したことによって始まったことを知りました。多くの実話を交えた講話の中でも「語られていない尊い歴史がまだまだある」との言葉は、一番強く印象に残りました。この講話は、人生の生きがいについて見つめ直す機会となりました。
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