教誨師として
先に記した本川貞さんのことを、教誨師として京都刑務所で収容者たちに話したのは、北野天満宮の浅井與四郎宮司であった。靖國神社の社報「靖國」(平成9年6月号)には、その詳細が寄稿されている。
本川さんが自分の食事をさいた御飯粒で貼り合わせた粗末な紙に描いた一枚の絵の下りから書き抜くと
『団らんの絵の中には、火鉢にかけられたやかんの中の徳利、お供えと正月の花が生けられ、「祈願家族無事」と自らの名を記した軸がかけられてある。(中略)さらに、「昨年復員後初正月を迎え、一家新春を寿ぎたる元旦午前七時ころのお雑煮を思い出し本年の正月もかくあらばとて思い、感無量なるものあり。」
私はここで声がつまった。ふと見ると、収容者も目頭を押さえ、拳で涙を拭っている。正に鬼の目にも涙である。留守家族へ思いをはせたのであろう。やがて訪れる正月に、同じ思いを寄せたであろうか。私が教誨をつづけてきて初めての光景である。幾千万言の教誨に優る史実である。家族の絆は彼らも同じである。この涙が更生を誓う呼び水になってほしい。この涙が罪を洗い流し、浄めてほしいと一途に祈った。
平和に恵まれ、家族そろって食卓を囲み元旦にお雑煮をいただくことは、決して当たり前のことではない。本川中尉も、今年もお雑煮がいただけると思っていた。しかし、彼は二度と頂くことが出来なかった。(中略)中尉の御長女の夫君は結婚前、交際相手の父親が戦犯だったことを両親に告げた。その時父親は、「勝った国には犯罪者でも、負けた国にとっては功労者、何も支障ない。」と断言されたという。この堂々たる言葉、当時の日本人の真情であり、現代の戒めである。』
「幾千万言の教誨に優る史実である」との言葉に大きな感動を覚えた私は、いつの日にか教誨師として英霊を語り、収容者の心の助けとなりたいと思った。数年後、その願いは叶い神社本庁教誨師に任命されて、12年間にわたり宮城刑務所にて集合教誨・個人教誨の任を務める。その最初の集合教誨のときであった。BC級戦犯として処刑された海軍大佐井上乙彦さんについて話し終え、8名ほどの収容者の間を刑務官に先導されて退出しようとした私に、強面の一人の収容者がドスのきいた野太い声で「先生、いい話だったよ」と告げたのだ。初めての教誨で極度に緊張し、収容者の反応も確かめられないまま夢中で話し終えた時、収容者の表情に変化はなかった。「やはり、いきなり処刑された殉難者の話は、無理があったのかも知れない」と、思いかけていた一瞬のことだった。そして、その一言こそ以来12年間の教誨活動の支えとなったのである。私の最初の教誨内容となった井上乙彦さんについては、次回のブログ18にてお話ししたい。
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