世界平和のためにも自分達が最後の刑死者でありたい
「石垣島事件」は、米軍が日本人のBC級戦犯を裁いた横浜裁判における三大事件の一つと言われている。事件の内容は、昭和20年4月、パラシュートで石垣島沖の海中におりた3名の米軍飛行士が、石垣島警備隊によって処刑されたというものであった。この件によって、同隊司令井上乙彦大佐以下七名が絞首台にのぼった。
米国立公文書館には、井上司令による敵兵処刑の根拠として次の3点があげられている。
1, 日本では連日の無差別攻撃で、島の漁師はもとよりのこと、町長など非戦闘員の命を奪った張本人であったこと。
2, 日本では昭和17年にドゥーリトル編隊により本土を爆撃されて以来、無差別爆撃を行った敵機搭乗員は処刑すべしと指令が出ていたこと。
3, 戦況は末期的症状で、島には捕虜収容施設を望むべくもなかったし、台湾への輸送航路は完全に遮断されて飛行士を管理しかねたこと。
昭和25年(1950)、処刑の二日前の4月5日夜と記された、妻千鶴子さん宛の御遺書の中で井上司令は、
『(前略)21年の大晦日に拘引されて以来、父なき家をかよわい手で支えて来たのですが、この5年間の苦しみをいつまでつづけねばならぬか判りませぬが、誠心の吾が家には何時かは必ず神様のお救ひがあると確信しています。私の魂は、それを祈っています。私の魂は天にも浄土にも行きません。愛する千鶴子や和彦や文彦や千賀子といつも一緒にいるつもりです。今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが、魂が此の 身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行って、あなた達を助けることが出来ます。助けの入用な時や、また苦しい時はお呼びなさい。何時でも助けになりますから。(中略)しかし、愛する妻子が戦犯の汚名で死刑にされた者の家族であると言うことを考えると可哀想です。当分は肩身の狭い思いをし、またある処では白眼視されるのを思ふとたまらない思いがします。くよくよしてもきりがありませんから、私が息をひきとる4月7日の正午を境にして気持ちをきりかへて再出発の覚悟をきめなほして下さい。(後略)』
と、家族への誠心を書き残した。しかし、遺書の最後の部分には 、
『絞首刑の友〇名(註・6名)と準備室に曳かれて来ていますが、皆しっかりしているのには敬服とも感激とも何とも言い様がありません。唯、頭が下がるばかりです。前から責任者である私だけにして、あとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも遺族の方にも誠に相済みません。』
と、部下6名とともに処刑されるという、責任を一身に背負うことができなかったことへの苦渋の心情を吐露している。
井上司令からマッカーサーに宛て、部下の減刑を訴えた嘆願書には 、
『(前略)私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の6名及既に減刑された人達を減刑されん事を3回に亘り事情を具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じながら私は刑死してゆくのであります。由来日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になっています。戦時中の私達の行動は総てその様に処理されていたのであります。もし間に合はばこの6名を助命して戴きたいのであります。閣下よ、今回の私達の絞首刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられん事を伏して私は嘆願致します。これ以上絞首刑を続行するは米国のためにも世界平和のためにも百害あって一利なきを確信する次第であります。また、神は不正及欺瞞ある公判に依って刑死者を続出するは好み給はぬを信じます。(後略)』
と、何としても部下を助命しようとする思いがあった。
石垣島警備隊からは、当初41名に絞首刑が申し渡されたが、二度の減刑により、司令以下7名に刑が執行された。巣鴨において、昭和25年4月7日であった。
その二ヶ月後に朝鮮動乱が勃発し、日米関係は微妙に変化した。以降、巣鴨では絞首台にのぼった者は一人もいない。井上司令が願った部下の助命はならなかった。しかし、世界平和のためにも自分達が最後の刑死者でありたいという司令の祈りは、歴史の転換という神のみぞ知る状況の変化によって、その御心に通じたのだった。
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