イオウジマメモリアル
硫黄島における日本軍との戦闘時、アメリカ海兵隊による星条旗掲揚の場面を元に製作されたイオウジマメモリアル。アメリカの戦争史において、最も苦しく名誉ある勝利の瞬間を今に伝えている。
しかし、この星条旗はその夜の内に日本兵によって日章旗に変えられ、昼に再び星条旗にと数度繰り返されたと伝えられている。
攻めるも守るも母国のため 生命を賭けての両軍が
平成7年、日本相撲協会は硫黄島の日米両軍戦没者慰霊の為、同島において貴乃花・曙両横綱の土俵入りを行っている。
当時の日本相撲協会出羽の海理事長は、硫黄島での慰霊行事への思いを次のように述べていた。
「巡り合わせを感じます。私が理事長の時に迎えた相撲協会70周年が終戦50周年と重なり、また貴乃花と曙という日米の横綱がちょうど揃った。それを思うと矢も楯も堪らない気持ちになりました。」
この言葉の背景を、靖國神社の社報「靖國」(平成7年6月号)の表紙コラムが記している。
『4月16日奉納大相撲のすべての行事を終了した後、日本相撲協会の出羽の海理事長が、遊就館を拝観された。目的は、6月4日に硫黄島で行われる横綱曙・貴乃花の土俵入りに備え、同島戦没者について学ぶためであった。大野宮司の案内で館内をつぶさに見学された出羽の海理事長は、硫黄島の指揮官であった栗林忠道命の解説文に、特に感銘を受けた様子で「勉強しなければいけない、知ることは大切だ」と、何度もつぶやいていた。その解説文には、次の如く記されている。
3月17日、栗林中将(戦死後大将)は、大本営に訣別電を発した後、みずから先頭に立っての最期の攻撃にあたり次の訓示を述べた。
「いま日本は戦に敗れたといえども、日本国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対して黙祷を捧げるの日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし。」
硫黄島にて戦没せられた2万1千の英霊に対し、後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを、栗林中将の玉砕(正義の為に戦って、潔く死ぬこと)の御心は固く信じているのである。
日本相撲協会は4月25日、十両以上の全力士を集めて硫黄島についての講演会を開き、横綱貴乃花も「勉強になりました」と答えたという。
敵と相まみえる時も敬意を忘れず、戦い終わりては礼を尽くす、高尚な心構えを民族の美しい伝統として培ってきた日本の国技相撲。その代表として日米両国出身の横綱によって、真の勇者たる硫黄島の日米戦没者に捧げられる土俵入りこそ、誠に時宜を得た意義深いものとなるであろう。』
日米両国出身の横綱による土俵入りの際、呼出しの永男が作った相撲甚句が流れていた。
相撲甚句
眠れ戦友 硫黄の島でヨー
アー母なる大地アメリカと 瑞穂ゆたかな日本が
過ぐる第二の大戦で 大海原の此の孤島
攻めるも守るも母国(くに)のため 生命を賭けての両軍が
地獄の如き戦いは 砲火も三十五日間
将兵三万華と散る 歴史にのこる激戦地
いまや星霜五十年 恩しゅう越えて両国が
あの亡き英霊よ安かれと 永遠の友好手を握り
ここに記念の大相撲 日本男児の貴乃花
アメリカ生れの曙と 両横綱がシコふみて
平和を誓うアー土俵入り ヨー
作元呼出し・永男
攻めるも守るも祖国のため、その苛烈極まる戦闘の恩讐を超えて互いに戦没者よ安らかにと祈る姿こそは、日米両国にとって誇るべき歴史として永く永く語られなければならない。
「特攻魂のままに」平成24年 大野俊康 展転社
【警察学校生の感想】
栗林中将の「必ず、この戦いの苦労をわかってくれる後世の人がいる。その為に戦う。」といった内容の最後の訓示を知った。
現代に生きる私はその苦労を知らず、戦争自体が誤りだ、戦争を始めたことは当時の情勢としては仕方なかったといったような議論だけに着目し、実際に戦った人々のことをまったく知らなかったことが恥ずかしくなりました。
又、大東亜戦争と太平洋戦争の呼び方が違う理由も知らず、もっと学ばなければ、そして感謝しなければと思いました。状況や時代は違っても国民のために働く警察官として、辛い状況に遭遇しても任務を遂行する苦労をわかってくれる人が必ずいると信じて現場に出ます。
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