昭和19年9月7日、黒木博司大尉は自ら創案した「回天」に搭乗、徳山湾内において樋口孝大尉の操縦訓練に同乗指導中、海底に突入、殉職されている。満22歳。
黒木大尉は、人間魚雷「回天」を仁科関夫中尉とともに創案された方である。海の「回天」、空の「神風」と米兵から恐れられた日本の特攻攻撃。そのさきがけとなった「回天」創案者は若き21歳の青年士官たちであった。
昭和18年、戦況が急激に悪化し祖国日本の危機が迫る中、黒木大尉は一撃必沈の「人間魚雷」を創案する。ところが、上層部は「必死」を前提とする特攻兵器を認めず、大尉は幾たびも血書建白を続けたのであった。
そして遂に、19年2月に人間魚雷は「〇六兵器」という名称で試作され、祖国を救う悲願を込めて「回天」と名付けられた。9月、徳山湾に臨む大津島に回天基地が設営され、ただちに訓練が開始された。その2日目の9月6日に樋口孝中尉の操縦訓練に同乗指導中海底に突入、殉職されている。
海底深く沈み、酸素徐々に欠乏してゆく艇内にあって、絶命の直前まで克明な手記を記したのだった。その追伸には、
「今回ノ事故ハ小官ノ指導不良ニアリ、何人モ責メラルルコトナク又之ヲ以テ〇六ノ訓練ニ聊カノ支障ナカランコトヲ熱望ス」として、この事故の原因がどこにあったのか、後事への参考に種々所見を記した後の絶筆には、
樋口大尉ノ最後 従容トシテ 見事ナリ 我又彼ト同ジクセン
君が代斉唱 神州ノ尊 神州ノ美 我今疑ハズ 莞爾トシテユク 万歳
と書き残されてあった。
黒木大尉とともに「回天」を創案した仁科関夫中尉
仁科中尉は、黒木大尉の遺志を胸に、出撃直前まで「回天」の研究・改良に熱心に取り組んでゆく。
19年11月8日、中尉は回天菊水隊隊長として母艦「伊第四十七潜水艦」に乗艦。黒木の遺影を持ち、ウルシ-環礁に向けて出発する。
同20日午前4時15分、仁科は、「回天」一号艇に乗艇し発進。
午前5時過ぎ、黒木の遺影を左手に、米輸送艦「ミシシネワ」へ特攻戦死されている。ブログ56番「生命欲は、一切の欲望の本源」に、つづく。
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