15、日本の勇士をたたえた豪州海軍

入り江の深いオーストラリア・シドニー湾
入り江の深いオーストラリア・シドニー湾

『敵国日本の勇士をたたえる豪州海軍葬』

 

三島由紀夫は『行動学入門』の中で、行動の美の典型として次のように記している。

 

オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらはれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したといふ話が語り伝へられてゐるが、このやうな場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度であることはおろか、歴史の上にもさう何度となくあらはれるものではない。
(写真は、入り江の深いシドニー湾の様子)

 

 この海軍将校こそ、熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐である。

中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、昭和17年5月31日夜、オーストラリア・シドニー港の奥深くに突入し敵艦一隻を撃沈したが帰還することはなかった。

この大胆不敵な攻撃によって甚大な被害を受けた豪州海軍であったが、敵国日本の軍人の示した勇気を讃えたのである。海中から特殊潜航艇2艇を鄭重に引き揚げて、松尾中佐以下4名の遺体を艇内から収容し、その勇気に対し海軍葬の礼をもって弔った。
この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー海軍司令官ムアーへッド・グルード少将は、

 

勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞されるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。

これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧げる準備のある濠洲人が幾人いるであろうか

 

と、全国にラジオ放送をして反対の声を制した。かくして世界の戦史に輝く豪州海軍葬をもって、四勇士を弔ったのである。

引揚げられる松尾艇
引揚げられる松尾艇

老母は、葬儀御礼に豪州へ 

 戦後、豪州海軍は松尾艇、中馬艇の二艇を切半し、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館の庭前に安置し、遺品と共に鄭重に展示。「この勇気を見よ!」とのタイトルが付けられ説明されている。つまり、オーストラリアでは「勇気」という徳目を、松尾中佐たち日本人の行動をもって教え示しているのである。

 松尾中佐の戦死より26年後の昭和43年4月、中佐の母堂まつ枝さんはオーストラリアヘ答礼感謝の旅に立った。

八十三歳の老母は「訪濠に当たりて」と一文を書いている。

 

昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかはらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆ひ、鄭重に遺族へ届けていただいて10月9日、鎌倉丸横浜に着くや全国民の感激はとても言葉には尽せませんでした。また河相公使より、直接当時の模様をお聞きした長男自彊の感激はまた格別でございました。

年経つにつれ、ますます貴国の御厚情有難く思っておりますうち、戦争記念館長さま御墓参、花輪を捧げられ、老母を心から慰めていただいた事も異例の事と深く感激、一度は貴国を訪問して一言御礼申し上げたく、夢路にたどったことも幾度かございました。

 ただ、貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日には、遙に貴国を拝し、感謝合掌しておりました。

この度はからずも、松本先生始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。 

俺はお袋と一緒に寝る

母堂の一行は、松尾中佐ゆかりの地を巡るが、戦死されたシドニー湾を見つめた折には、「よくもこんな狭いところを・・・・母は心から誉めてあげますよ」とつぶやかれ、連邦記念館では中佐の遺品の数々に涙を流して一首の歌を詠まれている。

 

愛(あい)艇(てい)を撫(な)でつつおもふ呉(くれ)の宿(やど) 
  名残りおしみしかの夜のこと

それは征途直前、中佐が両親と兄姉を広島県・呉の宿に招き過ごした時のことである。

中佐は、「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床につく。
母は、今宵が最後であることを予感しながらも息子を我が胸に引き寄せた、その一夜のことであったのだ。

歌に込められた母心、その背景をオーストラリアの新聞は競って報道した。勇士の母は詩人!との見出しで称賛の記事が紙面をかざり、訪豪の間、まつ枝さんは『勇士の母』としてまるで国賓のごとき大歓迎と受けたのであった。 

 

日本とオーストラリアにとって、誇りある歴史のエピソード、又、友好の絆として大切に語り続けられるべき松尾中佐とその母の物語は、今日の日本ではほとんど知られていない。しかし、少なくとも小泉純一郎・安倍晋三両首相がそれぞれ訪豪の折には、オーストラリアの首相と、この話題に触れて両国の大切な歴史としていきましょうと語り合っている。が、多くのマスコミが同行しているにも関わらず、報道されることは、ほとんどなかった。 

それは、勇気といふ大事な徳目を、暴力にすり替へてしまった戦後の意気地ない風潮が、いまだに日本を覆っているからだ。歴史を自分のこととして、その当時のその人の立場で、自分ならどうするか。そんな問いかけをしながら警察学校で話してきた。受講した学生の感想に、光明があると信じて、今後も発信を続けたいと思っている。 

 

何倍も苦しい思いをしている人がいる

今日の講話を聴講して、こんなにも苦しい母と子の別れがあってよいのだろうかと、自分のことのように考え、苦しく、悔しい気持ちで話を聞きました。また、過去にそのような時が本当にあったのだと考えさせられました。この戦争へ行った人達は、まさに今の私達と同い年で、戦争で死ぬことを分かっているにも関わらず、訓練をして懸命に努力していたのです。何とも信じがたく、戦争というものは残酷なものだと思いました。しかし、その戦争がなければ、今のこの平和で豊かな生活はあり得なかったのです。片道だけの燃料、車輪が無く着陸できない特攻機、母艦から移れば2度と開かないハッチの人間魚雷など、搭乗することはどれだけ恐ろしく苦しく辛い思いだったのだろうか。もし、私がその立場にあったならと考えると、生きていることすら苦しいのではないかと思います。夜が明けたら自分は死んでしまう。人として何とも残酷なものだと感じました。しかし、日本の国に対し自らの生命を捧げることに大きな誇りと喜びを持つことにより、この苦しみを和らげるのだと思いました。 

一番心が熱くなったのは、松尾敬宇さんの話で、戦争に行く前に家族5人で旅館に泊まりに行ったのです。その夜、布団を準備してもらう際に、5組ではなく4組の布団を準備して下さいとお願いしました。松尾敬宇さんは、母と一緒に寝たいと言いました。死ぬ前にもう一度、母と寝たいという気持ちが痛いほど伝わってきて涙してしまいました。 

 私は、今の自分がどれだけ幸せなのかと思いました。悩んでいたことも小さな悩みだと感じました。私達以上に何倍も苦しい思いをしている人がいる。それを忘れてはならないと思いました。また、他のたくさんの人にも知っていてほしいと思いました。今、私達はこの方達が命をかけて戦った分、精一杯生きて無駄にしてはならないと思いました。警察官として、精進していきます。

 

 立派な先輩達がいたということを心の励みにしたい

私は、戦争中の日本の文献を読んで、日本は事後法によって処罰されたことやA級戦犯はいなかったのではないか、従軍慰安婦などは本当はいなかったことなどは知っていた。だが、自ら死地へと赴く青年達の心情はきちんと見たことが無かった。彼らの遺書とも呼べる手紙を読んで衝撃を受けた。 

 戦時中の青年達に共通することは、自分の国である日本を美しい国だと思い、それを純粋な思いで守ろうと戦ったことだろう。確かに、当時は愛国心を育てる風潮であったが、それでも彼らの強い思いは自発的に現れたものに違いない。又、国を愛する心だけでなく、両親、特に母親への愛も顕著にあらわれていた。果たして、この感情は現代の日本の青年が持ち合わせているのかと考えてしまう。 

 紹介された中で最も心に残ったのは、松尾敬宇さんだ。特攻隊として、シドニー軍港を強襲し自らも散っていった。その胆力に尊敬の念を覚える。そして、その尊敬の念は敵国のオーストラリア国内にも沸き起こったことに強い感銘を受けた。戦っている敵でさえ尊敬の念を抱かせた青年の力の強さを感じた。講師は、「知らなければ何も感じない。知って感じてこそ教訓は得られる」と語られた。心に響き教訓となった事が多くあった。立派な先輩達がいたということを心の励みにしたい。そして、8月15日終戦記念日には、感謝の心を持ち英霊に黙祷を捧げたい。