31、やまとたけるのみこと その1

やまとたけるのみこと
やまとたけるのみこと

心やさしい勇者 

 これまで、特攻隊員の遺書や日記などを題材にした講話の内容と、これに対する警察学校生の感想を中心に記してきました。感想には、人へのやさしい思いやりと、それをもたらす勇気への気づきが多く記されてあります。

オーストラリアが海軍葬をもってその勇気をたたえた松尾敬宇中佐が、出撃前夜に「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床についたこと。

「私の父上も私の母上も、農に生き抜いた偉い方です。両親の若い時の苦闘を聞くと本当にすまない気がします。山間の田舎道を、荷車を引いて人が行く。飛んで行って車の後押しをしてみたい気がわいてきます。もう何のお手伝いをすることもできない私の不孝をお許し下さい。どうぞ御体御大切に。」との溝口幸次郎日記

「この日記も恐怖に負けないため、自らの決意を固めるために書いたように感じます。遺書を書き決意を固め、勇気を振り絞って死と対峙する。だからこそ、その文章は必死で切実で真摯な内容で、僕たちの心に直接訴えかける力があるのだと思います。溝口さんの日記から、沢山のことを感じました。両親への感謝の気持ち、謝罪の気持ち、死への恐怖、そして戦う勇気と使命感。」

これらは、「人へのやさしい思いやりと、それをもたらす勇気」を象徴するものです。

そして、「心やさしい勇者」として国史に最初に登場したのは、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」である。と、教えてくれたのは小学校五年生による発表内容で、その感動は大きなもので、二十数年前のことですが冊子を作成したのでした。

ここに、北海道富良野小学校五年生室崎猛男君による

『日本古代史の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を想う』を転載致します。

平成十二年二月十一日の建国記念日に、北海道富良野市で開催された「建国を偲ぶ市民の集い」において、富良野小学校五年の室崎猛男君が『日本古代史の英雄「日本武尊」を想う』と題して発表した内容の一部であります。

その内容は実に感銘深いものであり、「祖国と青年」四月号にも、その一部が掲載されました。今回、室崎家ならびに「祖国と青年」編集部の了解を得て、本冊子を作成した次第です。

室崎君が、お父さんから神話を読み聞かされて、日本武尊の心や行動に感動し、色々なことを深く考えた体験は、この文章を読むとよくわかります。

特に感心させられるのは、小学校五年生の少年が、「僕は、父の期待に絶対そむかないで、父がつけてくれた名前の様な本当に男らしく、お年寄や弱い子供などにやさしい日本男士になりたいと思います。」と発表を締めくくっている点です。同じ年頃の子供を育てておられる方々にこそ、是非ともお読みいただきたいと思います。 

 

『日本古代史の英雄「日本武尊」を想う』 北海道富良野小学校五年 室崎猛男 

 僕の名前は、猛男。猛々しい男、雄々しい勇敢な男という意味です。そんな男に成長して欲しいとの願いをこめて、僕の父は、猛男と名づけてくれました。 

今日の建国記念のお祝いに、皆様に、僕の思いを発表するに当り、僕は、自分の名前の様に男らしい男、勇気と正義の心を持って、生涯を生きぬいた男士を日本の歴史の中に、例えば少年日本史などでさがし、そして、その代表的人物を発見できたのです。 それは、日本古代史上の英雄、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」のことです。

尊(みこと)は、十六才位から、三十才で亡くなるまで戦闘の連続の一生ともいうべき生涯を終えました。勇敢に敵と戦い、謀略にはまり、危うく命を落とすような目にあいながら、からくも危機を脱し、尊をあざむき殺そうとした敵をやっつけるという、読みながら僕は、ハラハラして、何度も、汗をにぎりました。尊が十六才の時、九州地方で、一度は大和朝廷に服従したクマソという豪族の川上タケルという乱暴で強い大王がまた、大和朝廷にそむき、乱を起こしたというので、こんどこそ「クマソを征伐せよ」との天皇の命令で、この時、小碓(こうす)の命と称し、後に日本武尊と名のられる皇子がクマソ征伐に出発しました。

しかし、クマソの勢力は、はるかに大きく強いことが分り、「力」と「力」をぶつけ合う戦いでは、勝目がないと考えた尊は、ある日、クマソの川上梟帥(かわかみたける)の屋しきで酒宴があることを聞き女装して川上タケルに近づき短剣で川上梟帥を一げきでたおすことができました。この時、川上梟帥は、「この国では、自分が一番強い男と信じていたのに大和には、自分よりも勇敢で強い男がいたとは、おどろきだ。この後は、日本武尊と名乗られよ」と自分をたおした小碓の尊の強い勇敢な男らしさを惜しみなく、ほめて死んで行きました。

 この様に、当時の日本は、現在の皇室の祖先にあたる大和朝廷が、今の奈良県地方を都と定め、国を治めていたのですが、地方の強い豪族は、必ずしも大和朝廷の命に服さず抵抗したり、反乱を起こしたりしておりました。

 当時の大和朝廷は、第十二代、景行天皇のみよであり、その皇太子がこの日本武尊であります。大和から遠い地方の反乱や暴動をしづめ、平定して大和に帰り、父、天皇に報告すると、「ご苦労であった。今度は、東国が乱れたので平定せよ」との天皇の命令を受けてほとんど休むひまなくまた少人数の軍隊を率いて賊共を討ちに行くという始末です。 

 この様に、西の国を平定して帰ると今度は東のエゾを征伐せよと、つかれた体を休ませることも出来ず、遠征の戦闘に明けくれたのが日本武尊の生涯でありました。青年で若いといっても、さすがに尊はつかれ切り、父、天皇の命令が「かこく」できびしいので「我父天皇は、自分を早く死なせたいためにこんなヒドい目にあわせているのではないか」と、遠征に向かう途中、伊勢神宮に戦勝のご祈願にお参りした際、天照大神に、お仕えしていたおばの倭媛命(やまとひめのみこと)に、父、天皇をお恨みする言葉で泣いて訴えるくだりを読んで、尊に同情して僕も泣きました。ブログ32番「やまとたけるのみこと その2」へ つづく