32、やまとたけるのみこと その2

やまとたけるのみこと
やまとたけるのみこと

心やさしき勇者「やまとたけるのみこと」 その2

 

そして、尊が、おばさんに訴えた様に、父、天皇が、子である尊が、早く死ねば良いなどと本当に考えられたのだろうかと、僕は思い悩みこの疑問を思い切って父にぶつけました。

 父の答えは、こうです。

「本当のところは、私にも分らぬ。しかし自分の子を死なせて喜ぶ親は、居ない。同じ親でも父と母では、子に対する「愛情は一つ」であっても、その表し方がちがうのだ。現代ほど物質的に恵まれ何の不自由もないといえる生活は、かつてなかったと思う。自動車、テレビ、住宅、子供が通う学校、スポーツ、ゲーム等等、それなのに、感謝の気持ちがない者が多すぎる。今、この様な恵まれた生活が出来るのは、だれのおかげなのか、学校でも家庭でも、教えることがない様だ。だからダラダラと時間を無駄にして、気がついた時には、年令だけとって、何も充実した人生になっていない。生甲斐がない。何を志として、何を人生の目標として生きているのか、振返って実にむなしいたよりない人生になってしまう。これは、その人にとって最も不幸な人生なのだ。幸福な人生とは、死ぬ時になって自分は、全力を出しきったのだ、自分の生命以上のものを護ろうと悔いのない緊張感をもって、ここまでは、やれたという感激をもてるかどうかなのだ。子に対してこの感激を授けてこの人生を空しい人生を送らせるのでなく、毎日、毎日、生命以上に貴重だと思えるものを積上げて行く任務を与えるのは、その子の親のつとめであり、それでなければ、その最愛の子が、悲しいだけでなく、それこそ空しい、たよりない人生、感激のない人生を終るだけだ。

 日本武尊の場合は、御父、景行天皇は、民安かれ、国平らかなれと祈り、一日も早く、国民が安心して生活出来る国家を完全にせねばならぬという皇祖天照大神に対する御責任感により、通常の一般家庭では、想像できないほど、きびしくまた、悲しい使命を持たれた。まして古代の激しく、きびしい戦闘の連続の中にあって、我子皇太子、日本武尊に対する、「ともすれば」、「父と子」の情を、心ならずも断ち切ってご命令にならねばならぬ場合も、少なからずあったろうと思われる。皇太子であり、国家建設に最大の功績をあげている我子、日本武尊を早く死なせたいなどと決して、お考えになるはずがないのだ。

 むしろ、御子、日本武尊が御父、天皇の御心を信ずること誰よりも強く深く尊敬していたから、あのような活躍も出来たと考えるべきだ。しかし、その尊が一瞬でもお恨みする言葉を吐かれる程、その任務の戦闘は、二千年近く経た現在の我々には、想像も出来ない苛烈なものだったにちがいないのだ。くどいようだが、景行天皇には、皇祖天照大神に対する御責任感それは、今日の記念の初代の神武天皇によって始められた国家の建設の継承発展に対する御責任。日本武尊には、その皇太子として、これをお助けして、天皇とご一体となって、奮闘努力される自己犠牲が求められ、とうてい我々の生活などとくらべ物にならないこと。

しかし、だからといって、父子の情愛が、私たちと完全にちがったものではなく、尊が亡くなった報せがあった時の御父、景行天皇のお嘆きは、拝察にあまりある。」と、父は説明してくれました。

 日本武尊の物語で、僕が一番感動して印象に残ったのは、この一見、荒々しい、たくましい尊が、またお年寄りや女性、子供などの弱い者たちに、特に優しい思いやりの心に満ちた人であったことです。僕は、男々しく、猛々しく、しかも悲しく、やさしい日本武尊を発見して、大好きになりました。

(中略)大和の都へ向って帰る途中、尊の足がきかなくなり、遂には、歩けなくなってしまい、伊勢のノボノという所でとうとう亡くなりました。周囲の人も、尊のかずかずの雄々しい活やくぶり、やさしいお人がらを偲び、みな、声を上げて泣いたといわれます。亡くなった直後、御父、景行天皇は、たいそうお嘆きになり御陵(みささぎ)を作り、尊をなぐさめられました。ところが一羽の白鳥がこのお墓から飛びたち、人々は、これを尊の化身にちがいないと白鳥のまいおりた今の奈良県南かつらぎ郡に新しいお墓を造りましたが、白鳥は、そこからも飛びたち大阪府南河内郡まで行って留まったので、そこにも陵が造られましたが、やはり白鳥は、またも、飛びたち遠くあの最愛の妻、弟橘姫が、尊の身代りになった走水の海を目指して飛んで行ったのです。なんと力強く、男々しく、悲しくまた美しい勇者の物語でしょう。

 父は、亡くなった僕のおじいちゃんに連れられまた、一人でも前後合わせて十回位、伊勢神宮にお参りして、その都度、色々な感想があるとのことですが、この緑あふれる伊勢の神聖な姿を形成している何万本という杉木立の中には、樹齢千年や二千年のものも沢山ある様で、ヒョットしたらこの杉がやっと芽を出したころ、日本武尊が大御神にお参りする姿や、おばさんの倭姫命より父、天皇の子に対する本当の愛情を教えられ、天のムラクモの剣をおしいただいて、悲しみの涙をぬぐって、勇んで遠征していかれた姿など遠い歴史の一コマ一コマを見て来た杉が、きっとこの中にまだ生きているはずだとの思いが、父のお参りの度に、思いとして強く出てくるそうです。

昨年、僕等のおばあちゃん、父の母が亡くなってから、いっそう弱って病院に毎日通っている父は、こんな話をしてくれる時は、病人とは思えぬ位、目をかがやかして、また僕が弟橘姫が走水の海に飛びこんで尊の身代りになる個所を読み聞かすと、なみだぐんで兄と僕の二人だけの兄弟に、夫婦の愛情の尊さを熱っぽく語り、父の願いをぼくらに乗り移させたいとの思いが、はっきりと伝わってきます。日本武尊や大楠公、吉田松陰先生にあこがれる気持ちは、同じなのですが、自分の父親で、僕達のおじいちゃんの様な、堂々たる一生は到底おくれないと既にあきらめてか、それだからなおさら、子である僕達兄弟に対する思いは、特別なものがある様に思います。

 僕は、父の期待に絶対そむかないで、父がつけてくれた名前の様な本当に男らしく、お年寄りや弱い子供などにやさしい日本男士になりたいと思います。

以上