特攻魂のままに その2
四、江戸凧奉納
平成八年十二月二十八日、江戸凧保存会より「宇治川合戦」の武者絵が描かれた江戸凧が靖國神社に奉納された。前年の「田原凧まつり前夜祭」での約束の実現であった。
絵師・岸田哲弥により描かれた絵は、寿永三年(一一八四)源義経と木曽義仲対戦の時、義経方の佐々木高綱(乃木大将の先祖)と梶原景季が名馬磨墨・池月にまたがり宇治川先陣争いの名場面。
「下絵の上に楮百%の和紙を乗せ、一筆で一気に書くという江戸凧絵は、国内よりもドイツなど外国から高い評価を得ている。筆の勢いによって一筆で描かれた絵ばかりではない。緻密な絵もあり、その人物や動物も、まさに飛びかからんばかりの迫力に満ちている。江戸時代から続く江戸凧を後世に残したいとの岸田の思いを強く感じるものだ」と新聞にも紹介されたことがある(平成十年十二月二十日付産経新聞「日本の技」)。
岸田は、終戦当時にソ連抑留を体験。この年、復員五十年を迎えるに当たり戦歿者慰霊のための力作であった。
組み立てられた江戸凧は横一、六メートル・縦二、七メートル、明くる平成九年の正月飾りとして靖國神社神門に設置された。又、先に奉納された田原凧は、遊就館玄関に同じく飾られ、境内は一層華やかな雰囲気に彩られた。
この年の五月二十日、大野は定年により靖國神社宮司を退任。しかし、その後も岸田との繋がりは途切れることはなかった。
平成十年四月下旬。岸田からの電話。「来月、江戸凧保存会の行事として千葉県九十九里浜海岸で凧揚げ大会を開きます。大野さんにもぜひご覧頂きたいと思って電話しました。集合場所は外房線の茂原駅。駅前広場に、午前十時集合です。皆、揃いのはっぴ姿なので、すぐにわかります。御遠路ですが、九十九里浜での勇壮な江戸凧の凧揚げ風景をお楽しみ戴きたいのです」。
しかし、当時の大野は病気静養中であったため、開催当日は自宅の窓から空を眺めていた。江戸凧保存会の面々が粋なはっぴ姿で太平洋上の青空高く凧を揚げ、童心そのままに九十九里の砂浜を走り回っている光景が見えるようだった。幼い頃に凧揚げに熱中したことを思い出しながら……。
それから三年後の十二年五月、大野は岸田とその友人である山本清亮(ちなみに、山本は平成九年の靖國神社年頭風景として江戸凧にピントを合わせて見事な写真に仕上げていた)を小金井市の自宅に招待し、夫人の手料理で盃を交わした。この時、大野から岸田に対し、次のような賛辞が送られた。
「平成八年末に御奉納の江戸凧の『宇治川合戦』の絵は、実に素晴らしい出来映えでした。絵師・岸田哲弥氏がシベリア復員五十年に当たり、精魂込めて戦歿者の慰霊の為に描かれた気迫に心打たれました」。
岸田も心から喜ぶとともに「それでは、大野さんにご希望の絵を描いてお贈りします」と、再びの約束となったのである。
五、息子そして孫の守り絵
二度目の約束から約九ヶ月、二月十七日、大野の元に「龍」「鐘馗」二幅の墨絵が届いた。丁度その日は、孫・康典の十一歳の誕生日。古来、男子の出世絵の画題と尊ばれた「龍」・「鐘馗」が、正にその日に到来したことを瑞兆として、二幅とも天草へと郵送したのである。添えられた手紙には、こんな言葉があった。
「到来日の奇縁もあり康典の十一歳の誕生祝として謹呈いたします。(中略)康典の守り絵として、朝夕に拝観し確と志を立て強く正しい男となるように頑張って下さい」。
送られてきた墨絵を見た大野の長男・康孝は、「龍」を康典の守り絵に、そして、「虎乗り鐘馗」を自分の守り絵として、後年、還暦本掛帰りの寅歳の年賀状とすることを決めたのである。
九年後の平成二十二年寅歳にあたり、康孝はこれを実行。大野は、息子が忘れずにいてくれたことを心から喜んだのであった。ところが、年賀状に印刷の段となり、岸田にその許しを得たいと連絡するも返事はなかった。互いに八十代も半ばを過ぎた者同士と、止むをえず印刷に踏み切ったのである。
音信不通となってしまった岸田との縁は、思わぬ事から再び繋がっていく。たまたま長女から、テレビで見た「たいめいけん」三代目社長の話を聞いた大野は、平成八年の江戸凧奉納式にて「たいめいけん」二代目社長を紹介されたことを思い出したのだ。「たいめいけん」が決め手となった。
平成二十二年四月三日、長女夫妻の車で日本橋の洋食店「たいめいけん」を訪ね、昼食後に、その建物五階にある「凧の博物館」を見学。岸田の連絡先を知ることが出来たのである。
帰宅後、電話にて互いの健在を喜び合うとともに年賀状印刷の諒承を得たのであった。
六、守り絵「虎乗り鐘馗」
「鐘馗」には、病魔退散の信仰がある。その「虎乗り鐘馗」を自らの守り絵とした大野康孝には、実は深刻な願いがあった。康孝は還暦の寅歳を迎えようとする年末、肝臓癌と診断されていたのだ。
実は四十年前、当時大学生であった康孝は交通事故で肝臓破裂。しかし、八十余本の輸血を得て名医の執刀により九死に一生を得た。この時、家族はお伊勢さま・天草のお諏訪様・大野家代々の祖霊に熱祷しての奇跡であった。
来る寅歳還暦の新年に大手術を受ける覚悟を決めるにあたり、康孝は神々への祈願についで、「虎乗り鐘馗」に病魔退散の願掛けをした。
二月十七日、この日は実に長男康典の二十歳の誕生日、熊本大学医学部付属病院にて、手術は無事成功。三月十一日には、傷口がふさがるのを待たずに後続患者の為に退院。自宅療養となったが、二週間余で神前奉仕するまでに回復している。
まさに、神々はもとより「鐘馗」の病魔退散の神威の御陰であったのだ。そして、父・大野もまた平成十六年には心臓バイパスの大手術、二十年には大腸癌の手術を乗り越えて、夫人とともに穏やかに二十二年の桜の季節を迎えている。
江戸凧絵師・岸田哲弥による墨絵「虎乗り鐘馗」を守り絵に、これからも末代に至るまで神々に仕え、守られ続ける大野家であることだろう。
あとがき
本稿は、「虎乗り鐘馗」画の年賀状にまつわる、戦中世代の関わりについて、ご本人の回顧をもとにまとめたものである。この中には、人として大切な事柄、思いやりや信頼そして約束など、日本人らしい情緒が背景に表れているように思う。手本として見習うべき人間像なのだ。
「戦死して靖國の神となるのではない。己の死を覚悟して飛び立たんとする時、既に神であった」
靖國神社宮司であった当時、大野が何度も繰り返した言葉である。
「生きたい」とする生命欲は、人間の数ある欲望の中でも最大最強のものである。その強大な欲望に打ち勝って、国難の打開の為にひたむきに訓練を重ねて、死んでいった青年達。その姿や心を、己の心に刻んで懸命にそれぞれの職分に励んできた大野や岸田の世代によって、戦後日本の奇跡の復興はもたらされた。
「戦争で死んでいった兄弟や先輩、同僚のことを思えば、これしきの苦労など何ほどのものか」
大野たちの世代が共有する意識、同世代としての連帯感を、次の世代の日本人は持っていない。喜びや悲しみをともにしたいとする心情に強弱があるとすれば、戦後の日本人は確実に、その心情が弱くなってきている。それどころか、他人の感情がわからないことを恥じ入る気持ちすら失ったかのような日本人さえ現れた。家族や会社、地域社会とあらゆる場面での人間関係の希薄化。個人主義による繋がりの弱さこそが、子の虐待などの社会問題の根源にある。だからこそ、大野や岸田の世代に学ばねばならないのだ。
日本の風土によって培われてきた日本人らしい情緒があってこそ、日本人としての道義は互いの中に確認しあえることを。そして、その道義あってこそ、勝手気ままな利己主義を許さなかった日本の家庭があったことを。
平成二十四年二月
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