35、大和出撃直前、青年士官に退艦を命ず

戦艦「大和」
戦艦「大和」

 大和から退艦させた士官候補生たちに、日本の将来を託した指揮官たち

 

 前回の「特攻魂のままに その2において、『「生きたい」とする生命欲は、人間の数ある欲望の中でも最大最強のものである。その強大な欲望に打ち勝って、国難の打開の為にひたむきに訓練を重ねて、死んでいった青年達。その姿や心を、己の心に刻んで懸命にそれぞれの職分に励んできた大野や岸田の世代によって、戦後日本の奇跡の復興はもたらされた。

 「戦争で死んでいった兄弟や先輩、同僚のことを思えば、これしきの苦労など何ほどのものか」 大野たちの世代が共有する意識、同世代としての連帯感を、次の世代の日本人は持っていない。』と書いた。そう記述した背景のひとつに、山岡荘八「小説太平洋戦争」〔8〕にある戦艦大和出撃前に退艦した青年たちの記録があった。同書より引用する。

 

 大和以下の艦艇に燃料、魚雷、弾薬の類が積み込まれたのは四月五日の午後四時四十七分から九時十分にわたってだった。

 この間に大和では書き落としてはならない二つのことが実行された。

 その一つは、四月二日に大和と矢矧に配乗されて来た六十七名の士官候補生が退艦させられたことである。

 この新しい配乗の候補生は第七十四期の兵学校卒業生の一部で、卒業式が行われたのは三月三十日であった。

 彼らは、彼らの乗り組みを命じられた「大和」や「矢矧」の所在が秘匿されていたため、江田島の表桟橋を出て、島のまわりを一周して小用からまた兵学校に戻った。兵学校では養浩館と名づけられていた生徒の喫茶休養用の建物に四月一日まで待機させられ、四月二日に至って、三田尻沖に停泊中の大和と矢矧にそれぞれ配乗させられた。

 彼らは出撃が決定すると、誰よりも無心に張り切って躍り上がった。同期生中、真っ先に第一線の戦場に馳せ向かう。それは文字どおり血湧き肉躍る感激であったに違いない。

 しかし、この五分の勝算もない決死の出撃に、こうした若者たちを伴うべきではなかった。彼らは決して戦闘の邪魔になる存在ではない。教育はきびしく終って来ているし、覚悟はすでにできている。それだけに、ここ両三日ながら先輩青年士官のもとで、新配置につけられる猛訓練に励んでいた。

 しかし、この出撃の真の意味を理解する指揮官にとって、何としてもこれは伴い得ないものだった。彼らこそ戦後の日本の、新しい運命を切りひらいてゆくべき、大切な生命の後継者でなければならないからだ。

 「――候補生退艦用意! 候補生退艦用意!」

 副長の声で、艦長室前のマイクがそれを告げだしたのは午後五時三十分であった。それぞれの作業を懸命に手伝っていた彼らは、不審そうに艦長室前に集まった。誰にも思いがけない号令だったからだ。

 「――大和の乗り組みは、みなの長い念願だったと思う。しかし熟慮の結果、今回の出撃にはみなを加えないことになった。出撃を前に退艦することは残念ではあろうが、みなには第二、第三の大和が待っているだろう。みなはそれに備えて錬磨し、立派な戦力になってもらいたい。では、ご機嫌よう」

 艦長からそう言われた時、すぐかたわらの副長に鋭く問いかける者があった。

「副長! われわれは大和艦上で倒れる覚悟で来ております! いま降ろされては残念です。艦長にお願いして、是非つれていって下さい。お願いします!」

 一人の声はただちに五十三人(大和配乗数)の口々の叫びになった。副長の表情に一瞬、言いようもない困惑のいろが流れた。しかし、副長は声を励まして言った。

「――乗艦して三日にしかならないみなを連れていっても、足手まといになるだけだ。艦長の言われる通り、この際潔く降りることが一番よいと思う。出てゆくわれわれが国のためなら、残るみなもまた国のためだと思わぬのか」

 この士官候補生の退艦ということの中に、著者は大和出撃のすべての意味がふくまれているのを感ずる。

 彼らの出撃は、まさに退艦してゆく若者たちを活かすための出撃であり、生き残った国民をよりよく生かすための出撃・・・すなわち、終戦用意の第一歩の、まことにきびしい「供物――」であったのだ。

 この乗り組み候補生の退艦は普通はできないことであった。海軍省人事局の決定を出先で勝手に変更することになる。この変更をあえてしたのは艦長の有賀幸作大佐と、同期の艦隊参謀長森下少将の決定であった。

 ということは、この時すでに、この出撃決定が、上層部いかなる配慮のもとになされたかを、森下少将も有賀艦長も、以心伝心、誤ることなく、男のはらで受け止めていたという事にほかならない。

 それでなかったら、出撃を前にして見苦しい論争を繰り返されていなければならないところだ。それがこうして一糸みだれぬ理性と誠実さをもって活かされているという事は、何と言う素晴らしい彼らの「形見--」であったろう。

 事実この七十四期生の中から戦後の日本のために献身している多くの逸材を各方面に残している事を思えば、「大和は死なず!」の感が深い。

 こうして候補生たちは、名残りおしげに退艦していった。いや、候補生たちばかりではない。配置につくことの出来ない重患十余名と、呉で補充された、召集補充兵の十余名もまたねぎられながら退艦していった。

 この事実は、生き残った日本人として、永遠に語り継がなければならない歴史の中の一片の花びらであると思う。ここに、ほんとうの日本人の心の美が押し花されていると思うのは私だけであろうか。

 次に書き落とせないことは、翌六日午後一時、大和艦上に参集して行われた駆逐艦長以上の作戦打ち合わせの会議である。世間にはこの作戦を、無謀な暴挙といまだに信じている者もなくはない。むろん一般からも非人道的な自殺作戦などと酷評されている。私が注目したいのは、そうして一面を確かに持ったこの無理な作戦に、この時、何の議論も、何の意見の衝突もなかったということだ。

 世間が無理を感ずるような作戦に、直接生命をかけてゆく人々が、何の異論も唱えなかったということは、何という素晴らしいことであったろう! 争うことはいと易い。というよりも、争うように人間はできている。それが、いったん死の関頭に立つと、それぞれ笑顔で杯を交わして別れたという事は何という素晴らしい智性であろうか。

 

 果たして今日の日本人は、山岡荘八の言葉をストンと心に落として受け取ることができるだろうか。もしも、それができずもやもやと納得のできない思いであるならば、同じく山岡荘八の「最後の従軍」をも、お読みいただきたい。

「最後の従軍」は、「私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界・・・・それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない。」と結ばれている。

 

山岡さんや「特攻魂のままに」の大野宮司、こういった方々が共有する意識、同世代としての連帯感を決して忘れまいとして生きた人々の語る言葉こそ、頼るべき信じるべき歴史なのだと思っている。