37、戦没者を語る負荷 その2

戦没者を語る負荷 その2

 

鉄砲洲での禊行は5年に及んだ。毎朝通うことは出来なかったが、それでも年間300日は水に打たれた。現在の禊行の祖と言われる川面凡児は、「禊は夏に始めるべし」としている。四季を通じて行じてみると秋から冬への時期が一番厳しい。毎朝毎朝水は冷たくなってゆく、明日はもっとつらい明後日はさらにつらいと予測できる頃は精神的にも追い詰められる。それに比べて冬から春への頃は楽しくて仕方なかった。水は一段と冷たく、水柱を受ける肩から背中には冷気が残る、服を着ても氷を背負っているようだった。その背中の氷が朝日の温もりでだんだんと溶けてゆく体験もした。八丁堀から九段への帰路は東から上り来る朝日を背にして走ることとなり、背中は真っ正面から日差しをうける。「お日様は暖かいなあ」と思わず呟くこと毎回だった。人生も同じ、だんだん悪くなる時が一番辛い。まして行く手に希望が見出せない時ほど辛い時期はない。逆に、どんな苦境にあろうとも希望を得て日に日に状況が好転して行けば、心に楽しみも芽生えてくる。これも禊行から学んだことだった。

かくして禊を続けていると、戦没者や遺族を語る上でも大きな変化が生れてきた。貴重な史料を持って遺族や戦友の方が訪ねてきてくれる頻度が上がってきた。また、史料からの気付きによって次の史料へ繋がることが多くなった。それは、情報を集める心のアンテナが伸びたような感覚だった。さらに言えば、英霊の導きを受けとめる心の構えができてきたようだった。しかし、いまだ確たるレベルとは言えず迷いも恐れも多かった頃に、大野俊康宮司からある方の史料をまとめておくように命じられた。それから一週間ほどたった日に「先日頼んでおいた史料を応接室まで持ってくるように」との指示があった。応接室では、その方の遺族が4名で、大野宮司と面談されていた。すぐに、史料を広げると顔を見合わせて戸惑っている様子。それは、史料の内容によるものではなかった。家族でお参りに来て、たまたま境内でものを尋ねた相手が大野宮司で、戦没者の名前を告げると、「お待ちしておりましたよ」との一言で応接室へ案内されて、すぐさま史料が運ばれてきたことへの驚きだった。まるで、約束でもしていたかのような展開に遺族の方も我もまた驚いていると、大野宮司がこう告げた。「この一週間ほど、この方の戦没記録を読んで思いを馳せておりましたので、必ず遺族を神社に導いてくれると信じておりました。」と、さも当然のことだとの口ぶりに、一同感服するばかりであった。

「祈れば通じ導かれることなど疑いの余地もない」。斯様に、神の感応を得ていた大野宮司からかけられた言葉は、戦没者を語る上で大切な心の支えとなっている。

「野口君、堂々と語れ、戦没者の話を聞いて涙も出ないような人は日本人ではない。堂々と語れ」

もう一つ、海軍予備学生として多くの同期生などを亡くした池谷さんのことも記しておきたい。

池谷さんは大学の写真部に所属、カメラを持って出征している。当時、出撃直前の戦友の様子などをカメラに収めている。その貴重な写真を数多く所蔵していて、多くを資料として提供してくれた。遊就館特別展「学徒出陣五十周年 蘇る殉国学徒の至情」では、池谷さんの写真が数多く展示されている。特別展の展示解説をしている様子を池谷さんがたまたま見ていた時のことだった。「野口さんが一生懸命に同期生や戦友のことを解説してくれて、若い女性が涙を流している様子を見てうれしかった。ありがとう。」と、池谷さんから御礼を言われた。そうなのだ、遺族や戦友の方が喜んで下さることは、戦没された英霊のお喜びでもある。この確信を体得できたことも、大きな自信となった。

 

堂々と、遺族や戦友に喜んでもらえるように語り続けて行くとの決意に至り、戦没者を語ることへの恐れを克服することが出来たのであった。

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コメント: 1
  • #1

    市山 (木曜日, 02 11月 2023 08:40)

    素敵な方ですね!
    是非 話を聞きたくなりました。