戦場を知らず、戦時の悲しみも飢えも苦しみも知らぬ者が、戦没者や遺族のことを語ることは、大きな心の負担であった。
遺書などの史料にふれて深い感動を覚えそれを語るとき、心の中からは己に問いかける声が聞こえてくる。
「経験もなく当時の実態も知らぬ者が、実際に見聞きしたかのように話す資格があるのか。」
人から指摘されずとも、己の内なる声は厳しく心を責めた。幸いにして家庭は穏やかで、幼い我が子たちと過ごす時間も多く、これも平和な時代に生まれ合わせた御陰だと感謝するものの、戦時の人々の心が益々遠くなるように思えてならなかった。
そんな頃だった。東京八丁堀の鉄砲洲稲荷神社の禊場に通い始める。毎朝、午前六時半からの禊行に参加するため、九段の職舎から八丁堀まで自転車をこいで行った。九段坂を一気に下り、その勢いで神保町から一橋、日本銀行本店の脇を通って日本橋を渡り永代通りを南下して茅場町から八丁堀へ、往路は下り坂もあって約25分。鉄砲洲稲荷神社社務所地下のオルガンが置かれた教室で着替え、白ふんどしに白はちまきの姿となって拝殿脇の禊場で中川正光宮司のもとで禊を行ずる。禊場は5坪程度で隣にはビルがせまる。頭上約3㍍に水槽がありそこから直径5㎝長さ30㎝ほどの鉄管が3本下りている。水槽の水圧は3本の鉄管に集まり、まともに頭に受けられないような水柱となって落ちてくる。参加者が3名以上となれば水柱を共有するので一人が受けた水しぶきをあびるようにもなるが、3名以上となる日はほとんどない。へそ下の高さで左手のひらを右手で上から握り「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」と連呼しながら落ちてくる水柱を首の付け根や肩に受ける。時間は3分程度だっただろうか。寒く痛さを感じる時は長く思われ、寒さも痛さも感じず水に包まれるような感覚となれば、すっとこのままでありたいとさえ思えた。ここに、禊の単独行が危険とされる理があるらしい。特に、滝では危険である。神社の禊場と違い、滝行の水は永遠に落ち続ける。厳しさに耐えきれず滝から逃げ出るうちは問題はないのだが、水に包まれる爽快感に浸ってしまうと自らの力では滝から脱出することができなくなるのだ。禊は、入る勇気より出る勇気のむずかしさを教えてくれている。
さて、中川宮司との禊行である。鉄砲洲稲荷神社では毎年大寒に、空気で膨らます10㍍四方の簡易プールに氷柱を浮かべて、大寒禊を行っていた。平成7年頃は30名位の参加者があった。大勢の見物客も集まって、中川宮司は常とは異なる気合いの入りようで、鳥船行事などの事前運動もすっ飛ばし、いきなり「エイ-ッ」と、一人水槽に足を入れてしまい回りから押し止められたほどだった。「そうか、そうか」と照れ笑いする様子に、参加者も見物客も皆大笑い。中川宮司の人となりを象徴する出来事だった。厳しい禊行も、オルガンの置かれた教室で開催する断酒会も、この笑顔があったからこそ続けられ多くの人々を救い導いてきたのだろう。正しき言行の積み重ねによって「背中を拝まれる人」となっていった中川正光宮司の敬神生活の略歴は、
若いときに、カリエスなどの大病に苦しんだ末に「自然の道を歩め」との神示を受けて、今までの生き方を反省し、産土神や祖霊にお詫びと御礼を述べて病気平癒の祈願をした。以来、禁酒禁煙菜食を主とし、毎朝禊祓、鎮魂、拝神を続け、先年、九十六歳の天寿を全うされている。「神意にかなう生き方をすれば、必ず百歳まで生きられるように人間は出来ている。」と語り、毎朝禊に励む90歳の言葉は説得力に満ちていた。
こうして神意にかなう生き方を神明に誓ってからは、禁酒、禁煙、菜食を主として、毎朝禊祓、鎮魂、拝神を続け、人々に日光、空気、水、食物、精神のすべてにおいて生活改善をすればどんな病気も必ず治ると断言。実際、毎朝禊祓の後は社務所屋上で裸で日光浴、全身は赤銅色に輝いていた。 つづく
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