38、戦没者をむち打つ言動の退潮

オーストラリア戦争記念館の特殊潜航艇
オーストラリア戦争記念館の特殊潜航艇

1、国家存立の基盤

平成2512月、安倍総理大臣は靖國神社を参拝した。

総理大臣の靖國神社参拝に関する賛否の中、外交的に問題ありとする批判の内容は小泉総理の頃とは大きく様変わりしていた。中韓の反発をかさに着ても世論は動かず、米国の「失望」などといった言葉を頼みとするばかりで説得力に乏しい状況だった。当時も、世論の変化ははっきりと見て取れた。国内にあっては東日本大震災での自衛隊・警察消防による献身的救助活動への感謝の思い、対外的には尖閣や竹島をめぐる中韓の横暴なる言動などへの反発、これらは国民の意識を大きく変えていった。

戦争に関し「すべて日本が悪い」「靖國神社と聞くだけで右翼だ、偏狂ナショナリズムだ」などといった教育現場やマスコミの歴史観に対する疑問が、特に若者をして先の大戦の真実を知ろうとする意識の高まりとなり、世論の転換期であったように思う。

本来、犠牲的精神をもって祖国の為に殉じた先人を慰霊し顕彰することは国家存立の基盤であり、それが伝統的文化による宗教儀礼によって行われることは至極当然のことなのだ。些末な小手先論に揺るがず、総理大臣の参拝が続くことを期待したが、後任の参拝は途絶したままだ。

さて、大戦の歴史的真実として最も大きな影響力を与えているのは、戦没者の遺書を始めとする記録であろう。挽回困難な戦況の中で、己に何ができるのかを求めて奮闘しつつも家族を案じる真情に満ちた遺書こそは、読む者の心を強く打ち涙となってその心を洗う。一度でもそのような経験を持ち得たならば、安易に戦没者を鞭打つような言動に同調できるはずもない。戦没者の真情を語り続けることによって、国家は道義心を保ち、国難に立ち向かう国民を期待できるはずなのだ。

 

2、オーストラリアにおける「勇気」の象徴

熊本県出身の松尾敬宇中佐は、真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、特殊潜航艇に搭乗しオーストラリア・シドニー港その入江の奥深くまで幾重にも設置されていた防潜網を潜りぬけて突入、壮烈な戦死をとげている。

 昭和1765日の大本営発表によれば、

「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、五月三十一日夜、濠洲東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入二成功、敵軍艦一讐ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三讐未ダ帰還セズ」と。

この大胆不敵な作戦はオーストラリア国民に衝撃を与えた。と共に、日本海軍軍人の忠勇に深く感銘した同国海軍は、64日松尾艇、翌5日に防潜網にかかった中馬艇を鄭重に引き揚げ、艇内から収容した四勇士を69日、海軍葬の礼を以て弔ったのだった。

 この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー海軍司令官ムアーへッド・グルード少将は「勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せられるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を棒げる準備のある濠洲人が幾人いるであろうか。」とのラジオ放送によって、反対の声を制した。かくして濠洲海軍葬を以て敵国日本の4勇士を弔った史実は、世界の戦史に燦然と輝くのである。

 戦後、同国海軍は松尾艇、中馬艇の2艇を切半し、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館の庭前に安置した。館内では「この勇気を見よ!」とのタイトルのもと、松尾中佐が当時装着していたゴーグルや手袋なども展示、オーストラリアの子供たちは「勇気」と云う徳目を日本海軍軍人の記録から学んでいるのである。

日本にあっても、松尾中佐に感動した多くの人々がいた。特筆すべきは憂国の烈士・三島由紀夫の記述である。『行動学入門』の中に、行動の美の典型として

「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらはれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したといふ話が語り伝へられてゐるが、このやうな場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのやうな一致した美は人の一生に一度であることはおろか、歴史の上にもさう何度となくあらはれるものではない。」と記したのであった。

戦後日本の風潮によって、「勇気」と云う大事な徳目は正しく語られてこなかった。その結果、徳目として涵養すべき「勇気」まして「精神美」など理解も体得も出来ぬままの人物が総理大臣の重責に就き、「戦争責任を認め謝罪することには勇気が必要です。」などと発言した。

この羽田総理に対し、戦没者と思いを同じくする戦中世代から猛烈な批判が巻き起こった。「どこに、そんな勇気があるものか、勇気の意味がわかっているのか。」「己の心身に少しの痛みも覚えないような言動、そのどこが勇気なのだ。」当時の戦友たちの怒りの声はすざまじいものだった。しかし、今なお勇気は暴力などにすり替えられ語られることが多い。松尾中佐の記録は、勇気と云う徳目を日本人が取り戻すためにも広く語られなければならない。外交での安易な妥協がもたらした今日の日中・日韓関係、それらは、斯様に卑怯で不甲斐ない勇気なき日本の政治家がもたらしたのだ。腰ぬけ外交と揶揄されて当然のことだった。

 

3、最強最大の欲望である生命欲に打勝ちて、

 敵国をして、その勇気を認められた松尾中佐。当然、これに続こうとする後輩たちの精神的支柱であった。そして、この特殊潜航艇の訓練に励む後輩たちの中から、人間魚雷「回天」の創案者、黒木博司・仁科関夫両少尉が出たのである。この「回天」の訓練が始まった後に航空特攻が続いたのであり、両少尉の決意発案こそが特攻作戦の先駆けであることは明記されなければならない。

特殊潜航艇による攻撃も帰還の可能性の少ない決死作戦であったが、「回天」は外側から閉められたハッチを内側からは開けることが出来ない仕組みで、正に魚雷そのものに乗組む帰還の可能性のない作戦であった。一旦乗り込めば、そこには敵艦船に体当たりするか海底深く沈むしかない。「死」あるのみ、十死零生と呼ばれた回天に搭乗する青年たちの心中にあったものは何だったのか。

創案者・仁科少尉の日記

「人として特に軍人としては生死を超越することが肝要です。生命欲は生物のもつ一切の欲望の本源であり最強最大のものです。その強大な欲に打勝ち、これを超越して鴻毛の軽きに比し笑って死地につくことは至難中の至難なことであり、常人ではよくするところではありません。生死超越の道は敬神の念を高め信仰に生きることです。常に神を信じ、大死一番事に当たれば沈着も勇気も知謀も一切の美徳高徳の生ずることと思います。」

「謝罪の勇気」なる発言に、激高した戦中世代の胸中を思うだに辛い。真の勇者として讃えられて然るべき戦没者、その死んでいった仲間へ何と言葉を掛けたらいいのか。一国の総理大臣が、戦死者への一片の敬意も持たぬかのようにとらえられても仕方ない発言だったのだ。戦前の日本は批判されて当然だとする人に対して、共通して感じるものが、ここにもあった。日本人の根底にあるべき死者と交わろうとする心の欠如である。

 

 勇気という徳目が理解されぬままであり続ける限り、戦没者への敬意など望むべくもない。戦に敗れた後、正しい歴史が語られることは占領軍によって許されなかった。しかし、今日、大東亜戦争における真実も多くの国民の知り得るところとなった。当時の日本人が如何に誠実で勇気に溢れていたか、その感激が国民の意識変化につながっている。正しい歴史の組み立てを続けなければならない。