実朝の心を我が心とすべく努めていた
21歳の茶谷武さんは、自らが書いた論文「金槐和歌集について」の中で、源実朝について述べている。
『彼(実朝)の生きし時代と環境を思ふ時、生死を越えて、悲しきが上に悲しきを乗りこえてひたすら生きんとする人間苦とををしさ(雄々しさ)を思ひ出すのである。日本の歴史が悲劇であるが如く真に生きんとするますらを(益荒男)の生涯も悲壮極まりないものである。世に忠臣とよばれる人の生は敗北の生である。正しき人はいつの世にも苦しき思ひをつづけねばならない。この悲しみは感傷的と解すべきではない。先人のかなしきいのちをのりこえのりこえ前進するますらを(益荒男)の生の歓喜を予感するものである。実朝の歌をよむ時私はこのよろこびと悲しみを味はひ、己が心の糧とせんと努め、たらざる我が身にむちうち正しく生きんと願ふのである。(中略)人間如何に苦しんでもそれが豊富な体験となつて生きる時、これにすぎた幸はないと思ふ。歴史に生きる名もなき民の祖国防護の神霊を魂に感じつつ先人の体験を我のそれとし、生きるも死ぬも我一人とは思はず、三千年来の祖先と、永遠につきざる子孫の血を今我が胸に持つほこりを思ひ、これから巣立つていつてもらひたい。私が金塊集を取り上げた所以も此処に大きな目的を有するのである。』
700年余の時を超えて源実朝の心を思い、その心を我が心とすべく努めた茶谷さんは大正11年4月30日生れ。西暦だと1922年、ご存命であれば101歳(令和5年現在)の方である。論文執筆時は21歳。神奈川県出身で中央大学から学徒出陣、フィリピン・ルソン島タクボにて昭和20年4月23日に戦死された。隔たる時間を考えれば、実朝より茶谷さんへの理解の方が容易なはずだ。しかし、今日の日本人の大方にとって、茶谷さんへの共感や理解はとても難しい。日本人の歴史感覚が、戦前と戦後で隔絶されてしまっているからだ。戦前の日本人を理解することが、鎌倉時代のそれより難しいものとなった訳は、何なのか。
『(前略)戦後二十数年の間にその歴史感覚は磨滅してしまったようです。「戦後思想」が虚偽といわれる所以は、戦後の国民の心から「国」と「死」との視点がすっぽり抜け落ちてしまったことに由来すると思います。「国家」は個人の生活を保障する手段であり、「死」は一切の終末であるという前提からは、いのちをかけて何ものかのために献身するということはナンセンスです。しかし、人間の心の中には、自我を防衛する本能とともに、より高い価値への献身の意志も厳として存在します。それが人間を動物と区別する所以なのです。限りある個人のいのちを、永遠の国家生命に刻印してゆく、魂の永生を信じて「死」をのりこえる、そこに「人間」のあかしがあるのです。(後略)』
『(前略)あの祖国の生死をかけた大東亜戦争と真正面から取り組んだ一人の「ますらを」の姿を見るのです。彼ばかりではありません。あの時代のすべての青年は泣き言をいわずに祖国の危急に参じたのです。傍観的な戦争論を幾百篇積み重ねても、彼らの千万無量の思いにふれることはできないでしょう。抽象的に戦争そのものを断罪することが、そのまま純粋に戦った人々の行為の否定になっている現状を黙視することはできないのです。(後略)』
(短歌のすすめ 夜久正雄・山田輝彦著 国民文化研究会刊)より
茶谷さんの遺書の一部を書き抜くと、
『私ノ肉体ハココデ朽ツルトモ私達ノ後ヲ私達ノ屍ヲノリコヘテ私達ヲ礎トシテ立チ上ツテクル第二ノ国民ノコトヲ思ヘバ又之等ノ人々ノ中ニ私達ノ赤キ血潮ガウケツガレテイルト思ヘバ決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス 日本ニ生レタ者ノミニ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス』
そして、遺書の最後には、
『我ガ肉ハ ヨシ朽ツルトモ アガ魂ハ ミ空天カケ 御国守ラン』との辞世があった。
「歴史に生きる名もなき民の祖国防護の神霊を魂に感じつつ先人の体験を我のそれとし、生きるも死ぬも我一人とは思はず、三千年来の祖先と、永遠につきざる子孫の血を今我が胸に持つほこりを思ひ」との死生観のままに生死した青年の記録である。
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