43、同期の桜 信じ合って生きよ

 友を思う気持ち 白鴎遺族会

 

終戦直後の昭和21119日、敗戦の混乱の中の東京。1616名の戦死者を出した海軍飛行科予備学生13期の復員同期生は、築地本願寺にて米軍MPに取り囲まれながらも第一回の慰霊法要を行った。占領下であり、靖國神社での慰霊祭は許されなかったのである。

同期生たちは、やがて海軍飛行科予備学生・生徒各期の戦没者2485名の慰霊と遺族慰問のため、遺族と同期生が結束して、昭和273月社団法人白鴎遺族会を設立。

以来、毎年春秋二回の慰霊祭を靖國神社で行った。

同会は設立の後、全国の会員の親交と戦没者を偲ぶ遺族や同期生達の心を綴った「白鴎通信」の発行を続け、最も多いときには5800部を出している。その第1号から平成83月発行の第84号までを「白鴎通信集刷」として、平成12年に発行。実に800頁超の大冊である。この本は半世紀に及ぶ活動の記録にとどまらず、戦没同期生の友情による偉業として、後世に伝えるべき歴史的資料なのである。

「白鴎通信発刊のことば」には、同会発足の事由がこう記されてあった。

 (前略)この第十三期遺族会というものは、昭和189月に当時激烈になってきました航空決戦に備えて大学・高専の学業を終え、またはその半ばで海軍飛行予備学生に応募し三重及び土浦の海軍航空隊に入隊した者と、その御遺族の方達で結成されているものでございます。御承知のように飛行機乗りの一生と言いますものは、ひとたび基地を飛び立てば、どこで最後をとげるやら、それが確認されますのはほとんど稀で殉職などの場合を除いては、一緒に攻撃に出た者しかわからないような有様ですので、御遺族の身にしてみますと、ただ一片の戦死通知と「何々基地発進爾後消息不明、戦死と認定す」と言うようなものだけが残されているだけでは、やむを得ぬことは十分御承知になりながらも、子を失った悲しみ肉親を失われたお気持ちの淋しさは、到底拭い去る事が出来ないものがあると思われるのでございます。特に終戦後の混沌たる世相のために、ともすれば押し流されようとされた御遺族方を見るに及んで、共に国を思い本当にたんたんとした気持ちで基地を飛び立っていった同期生のことを考え、紙一重の運命から生還した私達で、どうかしてそのお悲しみの一端でもお慰めしたいと思って発足したものでございます。

 また、第1号には「同期の桜」を歌う真情、生死をもっても分かつことのできない友への思いが綴られてあった。

 私は今、黙々として鼻たれ小僧相手の田舎教師をしている。之はかつて諸君とともに飛び回った日々と比べると、あまりにものんびりし過ぎた生活であろう。しかし、こうしたささやかな暮らしの中にもいくつかの問題が見出される。その中で、私が今とりあげたいのは、信義の問題である。人を見れば泥棒と思い、正直者が損をする世の中となって、戦後の道義は荒廃その極みに達した。神聖なるべき学校にも、この風潮は遠慮会釈無く侵入してきて、教師と教師、児童と児童その相互の間に、果たして何人が真の知己を持ち得ているのであろうか。去る三月卒業生茶話会の席上、遂に私も一席なにかやらなければならなくなった。芸無し猿の私はためらう所なく立った。そして、「同期の桜」を静かに歌った。戦争中の歌のためか、皆は驚いて静まりかえった。私は、歌いつつ知らず知らずのうちに目頭があつくなってきた。「血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて忘れられぬ」、この心を誰が本当に理解してくれていようか。子等よ、信じ合って生きてゆけ。それでも、いまだ割り切れぬ心のままに日々を送っていたが、とうとう心の晴れる日が来た。去る415日、東本願寺において第十三期遺族会が行われた日、あの奥深い本堂に静かにながれゆく大合唱。見ず知らずの同期生とも一時に心の溶け合って行く一瞬。我に友あり。喜びに心がふるう。如何なるさやかな集いにも、我々の在る所、この歌だけは忘れたくないものだ。

 

 

 今後、「白鴎通信集刷」の中に記された愛情、友情、勇気、親切など、埋もれさせてはならない記録を、折々紹介してゆきたい。「子等よ、信じ合って生きてゆけ。」との教師となった同期生の叫びを聞いてほしいのだ。