「きけわだつみの声」と「雲ながるる果てに」の相違点
戦後、学校現場では「教え子を再び戦場に送るな」という名目のもとで、様々な材料が教室に持ち込まれ、「平和教育」「反戦教育」が繰り返されてきました。
特に、昭和40年代にはベトナム戦争と『きけわだつみの声』という本が頻繁に取り上げられ、いまだに大きな影響力を持っています。
昭和24年の出版当初より、この本に対する批判は多く、白鴎遺族会の同期生や遺族にとっても、非常に偏った編集方針により遺書が取捨選択されているとの印象を強くしていました。そこで、戦没同期生たちの様々な考え方を正確に残すべく、「雲ながるる果てに」を出版したのです。ここに紹介する文章は、昭和33年の『白鴎通信』に掲載された女子学生のものです。「きけわだつみの声」と「雲ながるる果てに」の相違点や、編集者の遺書への敬意の有無が理解できるように思います。その前に、文芸評論家小林秀雄の言葉も参考にして下さい。「戦時下の若者の心情に対して、あの本(きけわだつみの声)の編集者たちはあまりに一面的な取り扱いをしたのですよ。戦争に疑念を抱き、最期まで戦争を呪って死んでいった学生の手記は採用されたが、祖国の危急に臨んで決然と出陣し散華した学生の手記はボツとされたのです。」
突然こうして筆を執ることをお許し下さい。ただ今「雲ながるる果てに」の二回目を読み終わりました。心の中にあるものそれは筆舌に尽くしがたいもので、その言葉を辞典の中から探すには、あまりにもそれは美しさというか、偉大さというか、適した筆語を見出すことができないように思います。
戦いは、青春を抹殺し奪い去りました。しかし、あの中にあって今は亡き方々は、青春の意気に燃え祖国のために情熱を燃やし、青春をかなぐり捨てて征かれたのでした。或いは、青春を謳歌していたのかもしれません。美しい観念の中に「寂しい青春」を愛するが故に、もだえ苦しみ悩まれたことでしょう。愛するが故に祖国の姿を見ることが苦痛だったでしょう。結果がわかりながらなお祖国の永遠に栄えんことを祈りつつ美しくも短き一生を閉じられた御胸中。貴方がたは、愛する人々のためにお征きになりました。何という偉大な愛だったのでしょう。死の礼賛は、人生への敗北です。逃避です。けれど、貴方がたの死は、それは愛でした。勝利でした。祖国は敗れました。しかし、祖国に尽くされたその立派さは、永遠に誇られ生きています。貴方がたはどこかで私達を見守って下さっています。私は信じます。皆様の誇られたごとく、私も日本に生を受けたことを誇りと思っています。
「アンデルセンの国の王様は、今どうしていらっしゃるかしら」、
「クチナシの花のお好きなあの方は」、「凡太郎小父様は」、「素子ちゃんのパパさんは」、「葉隠れの武士を吟じられたあの方は」、「川柳をお作りになった方々は、神様になってもまだ大食いかしら」。
その方々の魂が私達を見守って下さったように、今も私のそばに。
「雲ながるる果てに」を読むことが出来たことをうれしく思っています。あの当時、私は小学校の下級生でした。小さいながらも、戦火に胸をしめつけられました。私達の持っていた愛国心。立派な美しいものと思っておりましたのに、戦後それは無残にも破られジャーナリズムは色々書き立てました。そして、小さな心は動揺しました。
愛するもののために死ぬ結果となることがわかりながら、死んでいったことが狂的行為であり馬鹿げたことだと非難されました。狂人沙汰だったのでしょうか。野蛮な行為だったのでしょうか。
先年、「きけわだつみの声」を映画で見ました。映画に出ていたことは、うなずけないと言うことはありませんでした。ああした気持ちもよく解りました、だけど何かしら・・・。
私の信念が不安定なためだったのでしょうか。動揺は益々増してわからなくなってしまいました。ジャーナリズムの言うことがいくら時代への風潮とは言え、何と豹変の鮮やかだったことでしょう。時代の推移と共に考え方も変わってくることでしょう。しかし、あまりにも鮮やかな転身を見せられると便乗主義、ご都合主義としか私には思えないのです。再軍備賛否両論、いったい真実はどこにあるのでしょうか。いえ、私達は自分で正しく判断しなければならないのです。強い愛と誠をもって。
靖國の宮におわします方々の御霊の安らかに眠り給へるように。 不躾のお便りお許し下さいませ。
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