万世輝く友情の記録
終戦直後の昭和21年11月に、海軍飛行科予備学生13期の復員同期生は、築地本願寺にて第一回の慰霊法要を行った。その後、27年に社団法人白鴎遺族会を設立。
以来、毎年春秋二回の慰霊祭を靖國神社で行って、戦没者慰霊と遺族支援その交流に努めてきた。その機関誌「白鴎通信」には、毎号遺族の声も掲載されている。
この最初の慰霊祭に、秋田県から上京した遺族の参列記録には、
『受付の同期生は「高久君のお父さんでしたか。確かウルシー(戦没場所)でしたね。高久君は幸福でしたよ。復員者の我々にはほとんど今以て就職を与えてくれる人はありませんからね。」と言って寂しく笑うのであった。私はハッとしてその人の顔色や或いは服装の様子を再び見直してから、「死んだ方がよかった」との意味を考えてみた。戦争末期、彼らは軍からも国民からも軍神として絶賛されたはずなのに、移れば変わる世の無常に対して私は身震いするほどの憤慨を覚えたのである。』といった内容のものがあった。
国が敗れたる時、個々人がどれほどの心痛を強く感じていたか。遺族や復員兵たちの真情が記されている「白鴎通信」から、思いを馳せてもらいたい。歴史に埋もれてしまうのは、あまりにも口惜しくもったいないと思わずにはいられない、そんな「母の手記」を紹介する。
『思い出せば昭和20年5月11日夜9時ころ、治さんからの電話に最初に出た私に、落ち着いた声で、「お母さん治です。いよいよ望みがかない行くことになりました。喜んでください。」、と言いましたね。およそ三、四十分の間かわるがわる受話器を耳にしてはお互いに語り合った言葉は、身も心も捧げて御国に尽くす事のみが中心でしたね。そして、貴方は何の心残りもなく喜んで爆弾を両翼に抱えて敵艦に突っ込んでくれました。行く貴方も、やる私達も、あたりまえの事だと思って。
布告によっても、如何に重大な決死行であったかが、うかがい知る事が出来ます。
想えば、大学在学中につぼみの様な19歳の身に之からの長い将来に向かっての洋々たる理想も夢も打捨てて、一日も早く大空の決戦へと血書をそえて予備学生を志願し、入隊の翌日に痛めた足の苦痛も治療していては遅れると、卒業するまで頑張り通した程の貴方でした。
「散る桜 残る桜も 散る桜」の愛唱歌とともに。母もまた、生きて帰れと願ってはいけないと言う貴方がたの言葉通り、決して無事に帰れとは願いませんでした。どうぞ、日本軍人として立派な働きをさせ下さいと毎月神詣りして、お百度を踏んで居りました。ああ、しかし貴方がたの尊い命をかけての働きもその甲斐無く、あの悲しい終戦になりました。いままで、こらえていた涙が一時に流れ出した様に、貴方の写真の前に誰はばからず思うさま泣きました。その後、「おしい事をしました。犬死にをさせて」と言う言葉を聞くときの私達の心中は、当事者のみの知る悲しいものでした。何という情けない慰めの言葉でしょう。やがて何時の日か、貴方がたの功績は立派に日本の礎となって、耀として光り輝く時を深く信じて居りました。夜半にふと目覚めた時、貴方のことを思うと止めどなく涙が出てまいります。でも決して母の女々しい感傷からではなく、感激の涙ですよ。誇りの涙ですよ。惨めな敗戦に、各々の生活に追われて誰一人、遺族などを顧みる暇もない中に、同期生の方々が如何に私どもにお尽くし下さったことでしょう。これこそ本当に生ける特攻隊よと、幾たび家人と語り合ったことでしょう。お届け下さった金鵄勲章を、おしいただき感泣したこともありました。築地本願寺の慰霊祭に同期の方々のお歌いになった同期の桜を聞き、思うさま泣きました。同じ境遇の方々の集まりの気安さもありましたので、おそらくお歌いになった皆様もどんなにか感慨無量な事であったと存じます。ああ、この歌を、ただ一度だけなりとも靖國神社で歌っていただけたらとの、当時としては夢のような悲願も同期の方々の命をかけての御尽力にて、しかも、春秋二回靖國神社で歌って頂けるようになりました。境内の桜の一片一片に思われる春の慰霊祭は此の母には年中行事での最良の日です。日本国中に今幾百万の遺族の方々の中に十三期なるが故にかくも慰められる幸福をしみじみと感じ、時折は反省もさせられます。去る11月には九州までも皆様のお供をしてまいり、肉親も及ばぬご配慮を頂き、ただただ感激して帰りました。
貴方の散った時から、私は霊魂の不滅を信じて居りましたが、この頃いよいよ深くそれを感じさせられます。貴方がたの魂は、同期のお一人お一人のお心の中に生きていて、その方々を通して私達の心にひびいて参ります。そして又、同期の方々を通して貴方がたのかつての生活も気迫も想像できます。
貴方はよい身代わりの方々を持っていてくれました。治さん、ありがとう。
しかし、これからの若人も母も、かりそめにも、ああしたことを再び繰り返すことのないように、絶対に真の永久平和への道に邁進して下さるよう念願しています。』
敗戦の後も、息子を誇りと思い、その立派な働きを誉めてあげたいとする母心がたんたんと記された手記であった。そして、同期生たちの友を思う真心も伝わってくる。これほどの素晴らしい友情を持ち得た世代を、私はうらやましいと思っている。
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