戦没学徒の遺志を継ぐ
靖國神社遊就館の特別展「学徒出陣50周年―蘇る殉国学徒の至情」への反響は大きなものだった。会場の様子の一端は、先に記したガリーナ・ドゥトゥキナさんの印象記からも知れる。この特別展を記録した「いざさらば我はみくにの山桜」(平成6年・展転社)の「あとがき」には、「展示ケースに手をつき、顔を寄せ、食い入るようにご遺書や日記を読み、ご遺影を拝する拝観者の涙と手垢で、ガラスは一日で曇った。」とあり、震えるような感動が多くあったことが窺える。感動の一要素となったのが、会場で流れていたベートーベンのピアノソナタ「月光」。「ふつう、単なるロマンチックなメロディにしか聞こえませんが、この時に限っては、胸がかきむしられるような響きで、思わず涙がこぼれてしまいました」。ガリーナさんと同様の思いとなったのは拝観者だけではない。展示解説する者も、「月光」の調べに沿うよう言葉を紡いでいた。そこには、戦没者と拝観者の心とが、ピアノの音に重なり響き合い、ひとつに溶けて行くような時が流れていたのだった。
マスコミの取材も相次いで、珍しく朝日新聞も来ていた。時の細川総理の「侵略戦争」発言により関心が高まっていた影響もあったろう。朝日の記者による取材は、平成5年10月21日付の夕刊に「学徒出陣50周年展 感想ノート通し侵略戦争論争」との見出し記事となっている。「侵略戦争なぞになんで尊い一身を捧げませう。細川さん、この出陣学徒の写真を一目おがんで下さいませ」(見送りした当時の女学生)、「侵略、謝罪、なんたる無知、無礼」(69歳の男性)など発言批判の意見は3件で10行ほど。一方、侵略肯定の意見は4件だが32行を占めている。「死者を讃えてはならない。讃えることによってまた新しい死を生み出す。殉国者は侵略者として命をおとしたことを心に留めねばならない」、「若い人の死は悲しい。しかし彼らに死をもたらしたのは、国家の指導者だ」など。いっけん公平に思えるよう、記事は構成されている。しかし、感想ノートの実相は違っている。意見の大半は、細川発言への批判だった。しかも、大学生など若い人の発言に批判の意見が多く、考え抜かれた決意表明さえあった。
首都圏学生文化会議の機関誌「豊旗雲」に掲載された鈴木由充議長の決意文には、
『(前略)細川首相は「先の大戦は侵略戦争であった。」と第三者のように歴史を断罪して憚らず、今日国防という尊い任務につかれている自衛隊に対してもいまだに相応の名誉が与えられていない。我々首都圏の先輩は御遺文や御遺詠等によって英霊の御存在を知り、その御心に触れ、圧倒されてしばし言葉も失うほどの感銘を受け、英霊に心から感謝申し上げるとともに、自らの志を励ます支えとしてきた。(中略)「戦没学徒の方々の御遺志を継ぐ」とは、我々にとって具体的に何をなすことであろうか。私は、この問いに対する答えを出したいと思い続けてきた。「ただ、俺の行為が将来君達の平和な幸福な日を築くに、僅かながらの用を成すなれば、俺は俺の今までのあらゆる不幸に耐えしのんできたことの意味があると思う。」(宅島徳光さんの手記より)「一命を賭してでも祖国を窮状から救わん。」先輩方の思いは、この一点につきるように思う。(中略)私たち学生は、非常時には自ら防人になるとの決意を為すと共に、いかなる状況の下でも祖国日本を物理的にも精神的にも守り、存続させていかなければならない。』
戦時下の学徒たちが、個人的な生活や幸福を捨てて家族や後輩そして国の命を救わんとした志を受け止め、我もまた「非常時には自ら防人になるとの決意を為す」と書いた大学生と、「死者を讃えてはならない。讃えることによってまた新しい死を生み出す。殉国者は侵略者として命をおとしたことを心に留めねばならない」等の意見が交錯していた終戦50年前後。それから、30年の時が経つ。その間に発生した東日本大震災。警察・消防・自衛隊、そして市井の市民によってしめされた自己犠牲の物語を、私達は知っている。しかし、殉職者などへの慰霊の儀礼は所属する組織のものに限られているが、少なくとも警察内部では、殉職された諸霊を顕彰する教育がある。その一端を務め得たことを胸中の誇りとし、警察学校生の感想などをもブログにて紹介している。今後も続けて行く。
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