50、かなしきいのちつみかさね

 正成、松陰、菊水隊 

 昭和191120日、ヤップ島東方に位置するウルシー環礁に停泊中の米国艦船に対し、人間魚雷と呼ばれた水中特攻兵器「回天」4艇が出撃。回天菊水隊4名の青年士官が戦死した。2号艇に搭乗の福田斉中尉は、両親への遺書の冒頭に吉田松陰の歌を引いている。「親思う こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」

自分の死を母は悲しむであろうか。母心はどんなにか乱れることだろうかとの思いの中で、松陰の歌を記す。出撃直前の113日、「中尉になって、まだ母と寝るのか」と兄に揶揄された一夜のことを思い出してのことだった。さりながら、遺書はこう結ばれている。

「殴り込みを寸前にして、意気極めて軒昂 斉 見事に散りたるを聞き給はば 万歳三唱致さるべく 女々しき振舞あるべからず」と。

 同じく1号艇にて出撃した仁科関夫中尉は、日記に

「人として特に軍人としては生死を超越することが肝要です。生命欲は生物のもつ一切の欲望の本源であり最強最大のものです。その強大な欲に打勝ち、これを超越して鴻毛の軽きに比し笑って死地につくことは至難中の至難なことであり、常人ではよくするところではありません。生死超越の道は敬神の念を高め信仰に生きることです。常に神を信じ、大死一番事に当たれば沈着も勇気も知謀も一切の美徳高徳の生ずることと思います。」と書いている。仁科中尉は、黒木博司大尉と「回天」を創案したが、太尉はその訓練中に殉職。仁科はその遺影を抱き出撃している。彼の自宅宛の手紙には、楠木正成の事がある。

「関夫儀 只 古人桜井の駅にいたり「更に残す一塊の肉」と嘆じたる その一塊の肉 無きを遺憾痛恨事と切歯の至り」

黒木と仁科は、深く楠木正成を敬慕していた。正成が兵庫湊川の戦いで敗れた時、遺骸の一部が足利尊氏によって遺族のもとへ届けられた故事を想い、それが出来ない自分の心情を遺憾痛恨事と書いたのである。

福田や仁科に限らず、遺書や日記に松陰の歌や正成の「七生滅賊」(しちしょうめつぞく)を記した戦没者は多い。訓練の先にある「自分自身の死」を見つめる時、心の中にある矛盾する二つの要素。勇気と恐れ、利己心と犠牲的精神、家族への愛情と国家への義務感などに悩み考え抜く。そして、その先に浮かんだものが、「親思う こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」や「七生滅賊」であり、松陰の辞世「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」であっただろう。日本の歴史を貫く愛国心の持ち主として、松陰や正成を仰いだのであった。

松陰は正成の墓所を訪れ、「七生滅賊」の志(幾たびも生まれ変わって日本を守る)に感激。楠木正成を深く敬慕したことを思うだに、正成から松陰そして戦時の青年たちへと「公に殉じる精神」は継承され、

「数え30歳で事も成せずに死んでゆくのは、穀物が穂も出ず実りも無く枯れるようなもので惜しいとも思われる。しかし、30歳なりの穂も出て実りらしいものもつけている。ただ、殻の中に実があるかないか私にはわからないが、私の志を憐れに思って受け継いでくれる人があるなら、穀物がよく実った豊年と変わらないのである。」

とした松陰の思想(大意)は、先の大戦を戦った青年たちによって、間違いではなかったことが証明されたと言える。

斯くして、三井甲之はこう歌う。

ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

 

斯様な英雄・義人が満ちている日本の歴史。時代を超えて貫き生きる国魂を語り続けてゆく。