明治39年1月14日、乃木大将は明治天皇に拝謁を賜り戦況を報告した。
「臣希典、不肖にして陛下忠良の将卒を失うことおびただし。この上は、ただ身を以て罪を陛下に謝し奉らんのみ」と奏上。退下する将軍に天皇は
「死は易く生は難し。今は卿が死すべきの秋にあらず。卿もし強ひて死せんとならば、宜しく朕が世を去りたる後においてせよ。」なる意味の詔あり。廊下に起立していた幕僚達に至るまで皆涙、顔を上げ得る者はなかった。
又、「華族教育の事、すべて卿に任す」との詔により、学習院長に任ぜられた。
戦勝の気運に乗って驕り遊惰に流れやすい時世にあって、華族の子弟教育を正さんとの大御心であった。これに応えんとした乃木は、幾たびも「教育勅語」を謹書して、大御心を己の心に刻み、学習院の第10代院長に就任。明治40年1月のことで、後の昭和天皇である裕仁親王が入学する1年前のことだった。
乃木の院長就任により、柔弱華美と批判されていた学習院は一変。質実剛健、質素勤勉の気風が持ち込まれたのだった。中・高等学科を全寮制にして院長自ら住み込み、生徒と寝食をともにした。その上で、「贅沢(ぜいたく)ほど人を馬鹿にするものはない」「寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ」と訓示。華族だろうと年少だろうが身を以て厳格に指導したのだった。
明治45年7月20日、明治天皇御重患の旨が発表される。この日以来、乃木は朝・昼・晩と日に三度参内し、酒を断ち食を節しひたすら御平癒を祈念しつづけた。
30日、全国民の祈願もむなしく、明治天皇崩御。「卿もし強ひて死せんとならば、宜しく朕が世を去りたる後においてせよ。」明治天皇より留め置かれた自刃。その時を迎えた乃木は、皇太子となられた裕仁親王(昭和天皇)に拝謁。山鹿素行の「中朝事実」・「中興鑑言」の二書を奉呈する。「今はまだ難しいでしょうが、殿下が将来御位につかれた時、この書は必ずお役に立つ事でしょう。特に重要な箇所には希典が朱点をつけておきました。」
裕仁親王は即位の後も、乃木からもらった「中朝事実」を傍らに置いていたという。乃木院長の教えを忘れまいとするお気持ちからのことだったろう。
大正元年9月13日、国民が明治天皇に最後のお別れをする御大葬の日、乃木大将と静子夫人は殉死をとげた。18日、大将の葬列を見送った多くの人の中には、日露戦争の傷病兵や学習院の子供たちの姿もあった。
きら星のごとくいた凱旋将軍や高官の中で、最も庶民に慕われた乃木大将。常に自らの良心に忠であろうとする、その崇高な精神をなつかしく慕わしいと思う心根を日本人は持っている。兵士や子供などにまで慕われた乃木の人柄。それあったればこそ、彼を指揮官として仰いだ第三軍の将兵は、過酷なる戦況にあっても一糸乱れず戦闘に突入していけた。
旅順において、おびただしい戦死者を出し作戦が立ち行かなくなった時にあっても、乃木大将の司令官としての信望はいささかも揺るがなかった。それは、死に直面していた兵士たちが、指揮官の精神や人格をより敏感に感じ得ていたからだ。
奉天の会戦において、敵将軍クロパトキンが最も恐れたのは乃木軍だった。過敏すぎる反応によりロシア軍は自ら墓穴を掘ってゆく。
崇高な精神を持った指揮官に統率され、死に対する恐怖など微塵もなきかのような乃木軍。対するクロパトキンは完全に冷静なる判断を失ってしまう。敵をして、恐怖に至らしめたのは、巧妙なる作戦でも最新兵器でもなかった。それは、絶対の信頼によって団結した崇高なる精神であったのだ。
乃木大将と、その指揮下にあって戦没された将兵、その神霊は乃木神社、靖國神社に祀られた。その勲功を仰ぐ庶民の心は、今も変わらない。時代は変わろうとも、良心に忠実であろうとする崇高な精神を敬い、それを己の心に照らして、なつかしく慕わしいと思う日本人がいるかぎり。
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