己の命を投げ出す行為
ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズの対談「神話の力」は、kokorohurihureブログ24番「国を守り続けて行く道」でも紹介したが、実に示唆に富む一冊だ。
その中でキャンベルは、「己の命を投げ出すこと」について語っている。そのくだりを要約すると、
『ショーペンハウエルはエッセイの中で「他者の危機あるいは苦痛を目前にしたとき、人間が即座に、すべてを忘れて、その人のために命を投げ出すことができるのは何故だろう。」との問いかけをした上で、ハワイでの珍しい出来事について記している。ハワイに、パリと呼ばれる自殺の名所がある。ある日、二人の警官が車でパリへの道を登っていた時、車の転落防止のガードレールのすぐむこうに、いまにも飛び降りようとしている若い男を見つけ、助手席にいた警官が飛び出して、男がまさに飛び降りた瞬間に彼をつかんだが、その警官も前のめりになり、男といっしょに落ちそうになった。間一髪のところでもうひとりの警官が駆けつけ、二人とも引っ張り上げた。あとで新聞記者がその警官にたずねる。「なぜ、手を放さなかったのです? 自分の命があぶなかったのに」。警官の答えは、「放すことはできませんでした。もしあの青年をあのまま死なせていたら、わたしは一日たりとも生き続けることはできなかったでしょう」と。
これが、危機的状況のもとで瞬時に認識されるであろう形而上学的真実です。ショーペンハウエルによれば、それこそ人間の生命の真実だからです。英雄とは、この真実の覚知に従って自己の肉体的生命を投げ出した者のことです。』
君臣互いに命を投げ出しての降伏
長谷川三千子氏の御著「神やぶれたまはず」(2013年 中央公論新社)、その最終章は『昭和天皇御製 身はいかならむとも』と題されている。
終戦の御聖断を仰いだ御前会議を中心に、昭和天皇と国民が互いに己の生命を差し置いて、陛下は国民を、国民は陛下を守ろうとした、その真心がかえって抜き差しならない事態を招いていく経過が検証され、当時の日本人の苦悩が伝わってくる。
長谷川氏は、この最終章を導くため、天皇との関わりを主軸に据えて、昭和20年8月15日の国民の心にあったものが何であったのかを、折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊藤静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫らの心象風景をたどりつつ綿密に丁寧に思索している。終戦時の日本人論として精神史として後世に残るべき考察である。
さて、その最終章。
『入江隆則氏の「敗者の戦後」の中の一節
「一九四五年の日本の戦略降伏のいちじるしい特徴は、天皇を護ることを唯一絶対の条件にしていたことだった。同時に天皇は国民を救うために「自分はどうなってもいい」という決心をされていて、こんな降伏の仕方をした民族は世界の近代史のなかに存在しないばかりか、古代からの歴史のなかでもきわめて珍しい例ではないかと思う。」を引いた上で、著者は次のように述べる。
『降伏すれば自分たちの命は助かるかもしれないが、それは敵に天皇陛下の首をさし出すことにほかならない。これは国体思想云々の以前に、人間としての尊厳を問はれる選択と言ふべきであらう。誰かを身代わりにさし出すことによつて自分の命が助かる道を選ぶといふことは、それ自体が「卑怯者の道」を選ぶといふことである。たとへその「誰か」が、取るに足らないやうな人間であつたとしても、そのやうにして生き延びた人間の生には、その後一生のあひだ、卑怯と卑劣の汚辱がこびりついたままとなる。まして、それが天皇陛下の生命とひきかへにあがなはれるといふことになれば、そのことによつて生き延びた日本国民は、卑怯だの卑劣だのといふより、もはや端的に日本国民ではなくなつてゐる、と言ふべきであらう。』
大東亜戦争末期、昭和天皇は一刻も早い降伏を望まれていた。それは、「身はいかならむとも」国民を救いたいとする御意志であった。
八月十四日の御前会議における御言葉には、
「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。」とある。
元寇の際に亀山院が、「我が身をもつて国難に代へむ」、十七歳の少年天皇花園院は、「民に代つて我が命をすつる」と大雨が止むことを祈願されたことを述べながら、長谷川氏は、『国民の為に天皇が我が身を捨てるという伝統は、単なる建前ではなく、すでに代々の天皇の血肉となってきていた。』とする。
一方、国民にとっては天皇を護りぬくことこそが唯一絶対の条件であり、戦場に銃後に懸命の戦いを続けていた。
当時の閣僚にとって、命を投げ出そうとされる陛下の大御心を十分に知り得た上で、降伏を受け入れることは「天皇を護ること」を放棄することであり、陛下を身代わりに自分たちが助かる道を選ぶことになるというジレンマなのであった。
長谷川氏は、さらにこう続けている。
『王を倒すことが正義であるといふイデオロギイを潜在的にかかへもつた「立憲君主制」のもとの国民であれば、ケロリとして平気で国王をさし出すであらう。しかし、形の上では同じ「立憲君主制」でありながら、「上下心を一に」することを国体の柱としてきた日本国民にとつて、天皇の命とひきかへに自分たちが助かるといふ道は、取りえない道であつた。といふことはつまり、降伏は不可能だ、といふことになる』
これが、御前会議での陛下の御聖断を仰ぐこととなった背景であった。と断じた長谷川論は、ストンと胸に落ちた。そうなのだ、臣下として到底出来ない決断を求められているジレンマを腹蔵しながら、鈴木貫太郎首相以下閣僚は御前会議に望んでいたのだ。長谷川氏の説く御聖断の背景を知ることによって、徹底抗戦を主張しながら御聖断の夜に自決した阿南惟幾陸軍大臣の胸中にも思いが至る。
国体護持が確約されぬままの「降伏受諾」という事態を招いた自責、無念の思い。しかし、陸相には更なる責任があった。この時、外地に150万、内地に350万の兵がいた。さらに特攻機一万、海上特攻機三千三百が本土決戦にむけて火を噴かんばかりに準備されていた。この状況下で陛下の御言葉「わたしはどうなってもかまわない」との一言を公にすれば、国民は激しく動揺し大混乱を招いてしまう。何としてもこの御言葉を秘したるままで、大軍に敗戦を納得させ武装解除しなければならない。その責めを背負っての自決であった。軍の最高責任者として、自らも御聖断に従い、軍人に国民に「終戦の詔書」を承詔必謹することを厳しく求めていったのである。
かくして、「戦争史上にも類を見ないほどの整然たる停戦の遵守、「見事な敗戦」とも言ふべき秩序正しい敗戦」となった。日本は内戦による分裂状態を招く事無く、国家としての一体観を保持し得て、御聖断により降伏した。つづく
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