黒木大尉とともに「回天」を創案した仁科関夫中尉
仁科中尉は、黒木大尉の遺志を胸に、出撃直前まで「回天」の研究・改良に熱心に取り組んでゆく。
19年11月8日、中尉は回天菊水隊隊長として母艦「伊第四十七潜水艦」に乗艦。黒木の遺影を持ち、ウルシ-環礁に向けて出発する。
同20日午前4時15分、仁科は、「回天」一号艇に乗艇し発進。
午前5時過ぎ、黒木の遺影を左手に、米輸送艦「ミシシネワ」へ特攻戦死されている。
仁科中尉の日記には、回天に搭乗し出撃するまでの訓練において、肉体以上に過酷な精神の練成があったことが窺える言葉が記されてあった。
『人として特に軍人としては「生死を超越」することが最も肝要です。
生命欲は生物の持つ一切の欲望の本源であり最強最大のものです。その強大な欲に打ち勝ち、これを超越して鴻毛の軽きに比し笑って死地につくことは至難中の至難なことであり、常人ではよくするところではありません。
生死超越の道は敬神の念を高め信仰に生きることです。常に神を信じ、大死一番、事に当たれば沈着も勇気も智謀も一切の美徳高徳の生ずることと思います。』
生死を超越するため、一切の欲望の本源であり最強最大の生命欲に打ち勝つとまで書いた仁科の心中は、まさにその風貌の変化に見て取れる。そのことを「回天菊水隊の四人」の著者である前田昌宏は、そのあとがきに次のように記す。
『人は、わずかな時間にも、これほどまでに齢をとるのである。昭和十九年十一月三日、今生の別れに帰宅した夜、「恐ろしい顔になったものね」と母をして言わしめた仁科は、二年余のうちに、十歳も十五歳も老け、「死ぬまできらぬ」と決めていた長髪は、両肩にとどきそうになっていた』
さらに、同書から母の記録を引用すると、
『十九年十一月三日、出撃直前休暇が許されて突然に帰省した関夫の様子を、母・初枝が記録している。夕食時しきりに話しかけた母「恐ろしい顔になったものね」「疲れているの」「凄い顔に見えるのは髪が長いせいかね」、対して関夫は無言で酒を美味そうに呑んでいた。』そして母の文章の最後には、
『次の朝、早く起きた関夫は湯殿で頭から何杯も水をかぶりながら何事かを祈念しているようであった。ボサボサに伸びた髪が気になるのも、女親のせいだろうか。私が駅までぜひ送りたいと言ったのに対して「家の前でいいよ」と辞退し、母がつくった握り飯を風呂敷に包んで、手にぶら下げ、ゆったりとした足取りで去っていった。どこから来て、どこへ行くとも言わないで行ってしまった、わが家の桃太郎は、待てども待てども、鬼ヶ島から帰って来ない。』
20日午前4時15分、ウルシー沖。回天菊水隊隊長仁科関夫中尉は一号艇に、二号艇には福田斉中尉、三号艇に佐藤章少尉、四号艇には渡辺少尉がそれぞれ乗艇、母艦である伊第四十七潜水艦より発進していった。
出撃直前、隊員たちの沐浴を待つあいだに、仁科は最後の日誌を書いている。
『昭和十九年十一月二十日 六尺褌ニ、搭乗服ニ身ヲ固メ、日本刀ヲブチ込ミ、七生報国ノ白鉢巻ヲ額ニ、黒木少佐ノ遺影ヲ左手ニ、右手ニハ爆薬桿、背ニハ可愛イ女ノ子ノ贈物ノ フトン ヲ当テ、イザ抜キ放ツタル日本刀、怒髪天ヲツキ、神州ノ曙ヲ胸ニ、大元帥陛下ノ萬歳ヲ唱ヘテ、全力三十ノット、大型空母ニ体当タリ』
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