葦津珍彦を読む
神職になりたての頃だったと思う。高校時代の仲間から「貴様は、神社の神職だから天皇は神だと思っているのだろう」と、半ばからかうように言われた。我には反論するだけの知識も思想もなく、何となく誤魔化したようにしか答えられなかった。友人にしてみれば、他愛ない問いかけだったかも知れない。しかし、我には深刻な問題だった。以来、神社人の天皇論を多く読んだが、どれも天皇の神聖は疑うべきものではないとの前提ありきのものばかり。明確に天皇を語れるだけの思想は見つけられなかった。
そんな時、父の友人で國學院の先輩でもある永淵一郎氏から、葦津珍彦を読むように勧められる。永淵氏は、kokorohurihureブログ6番「勤勉そして労働を喜ぶ精神」で紹介した山川弘至さんの妻である山川京子氏が主宰する歌会「桃」へも我を導く。そして、この「桃」に、葦津珍彦門下を自認する石田圭介氏がおり、ここでも親しく葦津論に接することができたのだった。永淵一郎・山川京子・石田圭介各氏については、あらためて記したい。
ここでは、初めて読んだ葦津の天皇論を紹介する。
敗戦国日本に対し、占領軍は皇室や神社を国家から切り離そうとする占領政策をおこなった。この絶対的権力者たる占領軍に対し、何としても皇室そして神社を守るため敢然として思想戦を挑み続けたのが葦津珍彦であった。そして、神社本庁の設立に尽力し、その教学広報の手立てとして神社新報の創刊に協力、主筆と共に発行母体の神社新報社の経営も引き受け、昭和43年に退職後も執筆活動や後学の指導にあたり、日本会議や民族派運動に大きな影響を与え続けた。
変化しやすい民衆の多数意志よりも遙かに高い貴いもの
葦津珍彦「創刊十周年記念出版神社新報編集室記録」 占領下の米国人に対してのものである。
ここで私は少しく神道と日本精神について語りたいと思う。諸君が日本占領の時にやって来た時には、あの特攻精神の精神がどこにあるのかをつきとめ、これを破破せねばならぬと考えていた。だが、その根源を諸君は遂に発見し得ていない。(中略)民族の伝統精神、神道、現津御神の思想と言うような所に問題があるのではないか。と諸君は考えた。そこで、諸君は「天皇は人間であって神(ゴッド)ではない」と言う啓蒙運動を始めた。無智軽薄な日本人がそれに追従した。然し諸君のプロバガンダは、日本人の現御神の思想を理解もせず、認識もしないで、これを否定したのであるから、日本人はただ諸君のプロバガンダを冷笑したのみである。日本人は初めから「裕仁命」を生理的な人間でないなどと思っていた者はいないのである。裕仁命が生理的には人間であられることは、どんな無智な人間でも知らぬ者はない。問題は天皇と言う民族の伝統的な地位が、神聖であるという思想にある。大御心(天皇の意志)が、神聖なものであると言う日本人の思想にある。
ここで、大御心(天皇の意志)というのは、アメリカ人が理解するような意味での、一裕仁命の後天的思慮や教養から来る意志なのではない。
天皇の地位が世襲的なものである以上、天皇の意志というものも世襲的なものでなければ意味をなさない。それは、アメリカ人の解している一裕仁命個人の意志よりも遙かに高い所に在るのである。それはわかりやすく言えば、日本民族の一般意志とでも言うべきものである。それは万世不易の民族の一般意志である。この民族の一般意志を日本人は神聖不可侵と信じているのである。それは一時代一時代の変化しやすい民衆の多数意志よりも遙かに高い貴いものと信じているのである。(中略)日本人はその時その時で変化する多数意志をも決して軽視するものではないが、それ以上に超歴史的な民族の一般意志、大御心を尊重するのである。ここに皇祖皇宗の遺訓たる大御心を日本人が神意と解し、天皇を現御神と申し上げる根源があるのである。
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