60、台湾へ、屏東での50年祭

台湾・屏東での山川弘至50年祭
台湾・屏東での山川弘至50年祭

 終戦50年となる平成7年7月、山川弘至さんの50年祭のため、戦没地である台湾・屏東を山川京子夫人にお供して訪ねた。山川弘至さんについては、kokorohurihure6番「勤勉そして労働を喜ぶ精神」に記した。その概要を書くと、

 

山川弘至さんは、昭和18628日に京子夫人と結婚、その5日後に応召。20811日に台湾・屏東の飛行場にて敵爆撃により戦死されている。彼は、國學院大學において折口信夫の門に入り国学及び純神道の研究と確立に生涯を捧げ、文学学問において国を護らんと志したが、今は軍人としてこの国難に殉ずる決意だとしていた。そして、その決意の陰には、「男が身を挺して国難に赴く時、女も献身的でありたい」と、急遽結婚の意志を固めた京子夫人の存在があった。そして、台湾の戦地にて国学者として後世に残る仕事を成し遂げる。古事記を訳した長編の叙事詩「日本創世叙事詩」である。京子夫人は、遙か南の戦場からこの原稿が届いた時、これは彼が生涯を賭けた作品だと直感し、何としても出版しなければと、灯火管制の下で原稿用紙に書き写す。さらに、空襲からも守り抜き、昭和27年に遂に出版に至る。本の「おくがき」には、「彼が厳しい軍務の後の夜更けを殺風景なたむろの一室で、ひとり神話の世界に没入し神々と遊ぶ姿が目に見え、溢れる涙をとどめ得なかった」、「神話を古事記以前の形にかへし、美しい詩によつて尊い日本の創世記を語り、又自らの生活にそれを実践し、実に身を以て教へてくれた」と、愛する人の姿を想い会えぬ悲しさ敬慕の心が記されてあった。

 

今回、京子夫人を台湾へと誘い旅のお世話をされた方々は、日本統治時代の屏東・長興庄役場の邱(きゅう)庄長(村長)に繋がる人々で、その中でも日本に帰化し、弘至さんとの御縁により山川姓を名乗っている方が、常に我々に同行した。長興庄長の邱さんは、まれに見る人望家で思想的にも立派な人であり、台湾本島人だが日本語普及の先駆者で日本語だけを使う家庭を築き、中学二年生の息子を國學院大學に入れて国語問題の解決や日本精神の指導者にしたいと語るほどの人物だと、弘至さんは書き送っている。戦後も、京子夫人と邱家との交流は続き、幾たびか訪台しての知己が多く、今回も訪問する先々で大歓迎となる。30年ほど前のことだが、印象深く覚えているのは、日本の撤退により入ってきた中国国民党への怨嗟の言葉だった。日本人による法治と、外省人の人治との大きな違いを教わる。しかし、戦後日本への不満も聞いた。戦時の日本人は立派で台湾の優秀な学生は皆日本を目指したが、現在の日本へ留学すると遊ぶことばかり覚えて帰ってくるとの言は、情けなく忘れられないものだった。

真夏の台湾への旅は、空路台北を経て高雄に始まった。先ずは、弘至さんの戦没場所である屏東飛行場へと向かう。戦後も、空軍の飛行基地として使用されている場所だけに、フェンスで囲われた基地内には立ち入れず、外から飛行場を臨み祭事の準備をする。草の上に敷物、靖國神社の神酒などの供物を置いただけの祭壇に向かい、靖國神社で毎日斎行される命日祭の神楽歌「みたま慰めの舞」を、神楽笛にて捧げる。笛を吹く我の横で嗚咽する京子夫人の胸の震えが伝わって来て、息が詰まる。何とか吹き終えて、その場に起立して「君が代」を歌う。始めに歌うつもりだったが、門番兵に警戒する様子があり後にした。短い時間の粗末な設えの50年祭であった。しかし、忘れられず思い出すたび涙の流れる奉仕であった。京子夫人がその場を立ち去りがたく幾度も振り返る様子は、悲しい極みの一場面としてまぶたに今も焼き付いている。

 

 歌人・山川京子の歌を引く

とほくとほく ありしものかも 地図の上に 台湾屏東 幾度見しか

うつくしき 君が最後の ひととせを 生かしめつひに 死なしめし島

とほき日の ひとりの君を 語りつぎ 吾を待ち給ふ 邱家うれしも

今は異国の 軍用機飛ぶ この下に 君が血潮は 流れしものを

うつくしく 清きこころの くにたみの 満ちゐし日本よ いづこへゆきし

 

台湾の人々が示す日本への親愛の情は、どこから来るものなのか。経済や安全保障などの利害関係だけの親日国でないことを訪台し身を持って感じることが出来た。日本の先人たちがどれほどの心血を注いで台湾を経営したか。そして、日本の熱意に応えて台湾の開発に尽くした多くの台湾人が残した足跡も知らねばならぬと思った。たとえば、統治下の異民族に普通教育を施そうと努力した台湾総督府。当時の西欧の帝国主義国が夢想だにしなかったことだろう。こうした背景があったればこそ、山川弘至さんと邱庄長の交流も信頼も生れていった。そもそも、当時の日台の人々は植民地という言葉さえ知らなかった。東京裁判で悪意を込めて用いられた以降の言葉であることも認識してもらいたい。台湾も「外地」であって、それは「内地」の対として使われたにすぎない。北海道生まれには、「内地米」や「内地の人」など普通に使われていた言葉であった。

 これまで、Facebookを通じて多くの台湾の友人を得ることが出来た。特段、台湾に関する記述はなかったにもかかわらず、誰よりも熱心にkokorohurihureからの投稿記事を読んでくれているのが、台湾の友人たちであることをうれしく思っていた。あらためて感謝申し上げ、今後も台湾について書いてゆきたいと思っている。