前回、松尾芭蕉と李登輝を勇者とし、更には勇者を知る人と書いた。その所以を、「奥の細道」を引きつつ考える。
『早朝、塩かまの明神に詣。國守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日あけの玉かきをかがやかす。斯る道の果て、塵土のさかひまで、あらたにましますこそ、吾國の風俗なれといと貴けれ。』
(意訳)夜明けに鹽竈神社を参拝。伊達政宗公からの累代伊達藩主が再興した社殿の朱塗りの垂木はまばゆいばかり、表参道の石段は高く重なり、これも神の威光が輝いてあればこそ。斯様に我が国の習わしを貴く感じたとした上で、次に拝殿前にある文治神灯について記している。
『神前に古き寶燈あり。かねの戸ひらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかひてそそろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳名今に至つてしたはずと云ことなし。まことに人よく道をつとめ義を守るべし。名もまたこれにしたかふといへり。』
(意訳)神前にある古い灯籠の鉄の扉の表面には、文治三年和泉三郎寄進と銘が刻まれてある。五百年前の、その姿が目に浮かぶ。和泉三郎は勇気も義侠心もあり、忠孝一筋の武士であったが兄泰衡の邪道によって誅殺された。しかし、道に従い義に死んだ彼の芳しい名は後世に伝わって慕われている。古人曰く、人はよく道を勤め義を守るべし。名もまた之に従うと。
和泉三郎忠衡は、奥州藤原家第三代当主秀衡の三男。当時、秀衡は鎌倉の手を逃れて平泉に逃げてきた源義経を匿い、平泉は全力で義経を守るとした。そして、秀衡の覚悟は息子達にも伝えられてあった。しかし、秀衡の死後に兄弟の意見は割れる。
忠衡は、父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張する。しかし、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経とその妻子・主従を殺害。文治5年(1189年)6月、義経の首を酒に浸して送り、泰衡は鎌倉に恭順の意を示す。しかし、頼朝の目的はあくまでも奥州藤原氏の殲滅にあった。これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものだとして、泰衡追討の宣旨を求め、全国に動員令を発するに至る。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州は内紛となり、父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こしたとされた忠衡は、泰衡によって誅殺されたのだった。まさに、忠衡は勇義忠孝の士であった。
江戸にあって、孔子や荘子の教えに親しみ、杜甫や西行の歌に心を揺らし、国史を学び尽くした上で、46歳の春に奥羽への長旅に出た芭蕉。行脚の先にある賢哲の遺蹟をたどり、時を経ても色変えぬ遺徳を讃えるためには、ものへの執着を捨て雲水に身を任せた旅人とならねばならない。身ひとつで旅立つ勇気がなければ、賢哲の心と共鳴はできないとの覚悟だったのだろう。つまり、和泉三郎を「かれは勇義忠孝の士なり」と書き得た芭蕉もまた、勇義忠孝の士であった。そして、勇者たる芭蕉を知り得ていた李登輝も、勇者であったと言っていい。
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