終戦の御聖断を仰ぐに至る中にあって、昭和天皇と国民が互いに己の生命を差し置いて、陛下は国民を、国民は陛下を守ろうとしていた状況については、本ブログ54番で書いた。
戦勝国による東京裁判が始まろうとしていた頃、国家が裁かれる事態に抵抗する気力さえ失って右往左往する国民の中に、裁判に臨む準備をしていた日本人がいた。冷厳な法理のちまたにあっては、陛下と国民が互いに互いを守ろうとする日本人の真心こそが、かえって抜き差しならない事態を招いてしまうことを見越して、笹川良一は裁判への戦闘準備を始めていった。
終戦時、笹川は46歳。戦前には国粋大衆党総裁として活動し、衆議院議員に当選している。戦後は、A級戦犯として3年間収監され後、公職追放解除。競艇事業を興し、昭和37年には日本船舶振興会 (現日本財団) を設立して会長に就任。年間 600億円という巨額の補助金を背景に政財界に隠然たる発言力を保持し続けたことから、政界のフィクサーなどとも呼ばれた。また、船舶振興会のテレビコマーシャルに自ら出演して唱えた「一日一善」は、 昭和51年の流行語ともなっているし、「世界は一家、人類は皆兄弟」は、多くの国民に記憶されている。これから書こうとすることは、自ら志願してA級戦犯となっていった男の話である。
笹川は、東京裁判にあって陛下の防壁となれるのは東條英機しかいないと考えていた。
しかし、東條ら軍人を含めて官位を極めた秀才達が肩書きを失った姿は、学歴が高等小学校しかない笹川の目には、頼りなく情けないものに見えていた。
臣下の誰よりも忠実に陛下の大御心を体してきたと自負していた東條が、裁判にあっても、ありのままに正直に心中を吐露すれば、どうなるのか。
「すべての命令の責任は天皇にある」との根拠とされてしまうだろう。陛下自身が、そのおつもりであったし、日本人の中でも天皇責任を連呼扇動している者があった状況下、断固として、これを阻止する。そのことを最大の目的として、「東條を説得するため巣鴨に入る」と、決断した笹川の行動に日本人はおろかGHQさえも度肝を抜かれる。
その行動は、絶対的権力者であったGHQへ公然と反旗を翻す演説をすることに始まる。これは、最初から捕まるつもりでのもので、その心境を手記として残している。
『私は決死の勇をふるい起こして、志願してでも戦犯にならなければならないと決心した。勝ち誇った占領軍が、敗戦国日本を徹底的にやっつけて、侵略者の烙印を押そうとしていると感じ取ったからだ。侵略者と決めつけて賠償金を課されて・・・賠償金は払えばすむが、金では済まないものがある。侵略者と決めつけられると全国民は不義の片棒を担がされた事になり、祖国のために生命を捧げた勇士たちが犬死したことになる。これは何としても防がなければ、英霊はむろんのこと祖先と子孫に対して申し訳が立たない。しかし、続々と逮捕されてゆく、大臣、大将、みな立派な人たちながら、裁判の経験がない。このまま捨ておくと侵略者にされてしまう。私は獄中生活三年と、四年四度の裁判で無罪を勝ち取った経験がある。私が戦犯になって入獄し、被告の指導にあたる必要があると思い、それでまず墓造りをして、独演会を開催してまわった。おそらく占領軍当局も肝をつぶしたに違いない。日本は断じて侵略戦争をやったのではない。人間には生きる権利がある。生きるためには食料を作るか、貿易をやってその利益で食料を獲得するかの二者択一しかあるまい。その二つの道を塞いだのはいったい誰なのだ。日本人が朝鮮や満州のどこで搾取したか?日本人の出て行ったところで、以前よりも生活が苦しくなったところがどこかにあったか?』
同様の内容を演説会で述べたあと、次のように占領軍を挑発する。
『会場には幸いに占領軍の諸君も通訳も来ているのだから、私は入獄できるだろう。入獄できれば、思う存分祖国日本のために、日本国民が侵略者にあらざる所以を陳述し尽くすであろう。私に逮捕状が来たと聞いたら選挙民諸君は、日本のために祝杯を挙げて頂きたい』
こうして、「笹川大国士歓送!」と書かれたのぼり旗を立てたトラック、それに乗った楽隊付きでまさに鳴り物入り、万歳万歳の声に送られて入獄していった。 つづく
参考引用 「小説太平洋戦争第9巻」山岡荘八 昭和62年・講談社
「巣鴨日記」笹川良一 1997年・中央公論社
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