65、どん底に泣く同胞のために

笹川記念館にある「母を背負う笹川良一」の像
笹川記念館にある「母を背負う笹川良一」の像

 笹川良一が、巣鴨拘置所に入り、戦犯とされた方々を物心両面で支え続けた獄中戦闘の記録の前に、彼の母堂のことを書いておきたい。

「小説太平洋戦争・第9巻」の山岡荘八の筆に従いつつ記す。

昭和20128日、巣鴨入獄の指令が出る4日前のことだった。

巣鴨へ向かう訣別のため、母と共に父の墓参を済ませ氏神様に参拝した翌朝、母は赤飯を炊き鯉の味噌汁を作って入獄を祝った。まな板の鯉になれという意味とすれば、母の決意も並大抵のものではない。そして、いよいよ出発のとき母はこう語る。

「お前の体は父さんと私で造ったのだが、お父さんは早く亡くなっていないのだから、お前の体は、ただいまそっくりお前にあげます。思う存分、日本の為にお役に立てなさい。」

涙一粒こぼしもしない母であった。それから三年の間、毎日全戦犯の無事を祈って氏神様へ日参しながら、我が子には数通の手紙しか出さなかったというから、これもまた尋常の母ではなかった。

 笹川が満3年と12日間在獄して、母の元へ帰ってきた時、母が真っ先に尋ねたことは、「巣鴨に残されている気の毒な人々の数は?」

という問いかけだった。息子が、「はい、BC 級の人々が2500人ほど残っています」と話すと、母は座り直して言った。

「当分政治から手を引いて、先ずその2500人が全員出所の努力をするのがお前のつとめです。私もまた氏神様に全部の人が出られるように、改めてお百度を踏みます。自分の子はかわいい。人もみんな同じです。」

そしてそのあとで、母は当然のことのように、私も祈願して毎日お百度を踏むのだから、お前も全員が釈放されるまで、禁酒禁煙を誓うように我が子に求めた。

我が子の巣鴨入りを鯉と赤飯で祝ってくれた日本の母の、わが子に求める精進もまた厳しい。

笹川は、そこで母に誓った。政治からは手を引いてまずこの不幸な人々のために粉骨することを・・・・・。出所したらと心に描き続けてきた酒も断った。獄中ではわずかに吸い得たタバコも断った。そして、文字どおり総員の出所が許される33年までの10年間、この母の息子は日本中を駆け巡って、これら不幸な人々の味方になり切った。この母と子の操守りを、山岡はこう書いている。

「われわれ凡人にとっては、我が身の健康のために断つ禁酒禁煙も並大抵のことではない。それを全員出所の日まで固く守ってきた母と子の操守りこそは、わが家族民族の誇りでなくてなんであろう。」

さらに母は、自分の古希の祝いに子どもたちや友から送られた記念品の全てを売却し、2500人の巣鴨残留の人全員に甘い汁粉を差し入れた。当時、砂糖は高価な貴重品である。巣鴨にあって絶望しかけていた人々が、この一杯の汁粉の味にどれほど勇気づけられたことか。こうして息子を励ましながら母の氏神様への日参は、昭和32年の末頃まで続けられた。

その頃、500人ほどの人が巣鴨に残っている。

「あと、どのくらいですかの」

そう言いながら、82歳になった母はついに病に倒れた。そして、亡くなる直前母は息子を呼んで、

「私の葬式はみんなが出所するまでしてはなりません。」

昭和33117日になくなった母の葬儀は、遺言どおりその年の6月の月命日となった。

山岡は、こう書いている。

「当日の青山斎場には東條大将の未亡人、山下大将の未亡人などが皆集まって、参列者の荷物預かり係を受け持たれたことも忘れてはなるまい。刀自の心情は刑死者の遺族は無論のこと、巣鴨生活の経験者たちに温かく浸透していたのだ。

山岡は、笹川母子の一章を次のように結んでいる。

「一方では同胞互いに密告し合ったり、米などあるはずもない皇居に、窮民を煽動し日当で釣って「米寄こせ!」のデモをかけさせたりしている醜悪を極めた戦後の世相の中で、我が子を戒めながらどん底に泣く同胞のために菩薩行を行じ続けて逝った「日本の母」があったということは、何という清々しい民族の心の浄めの塩であったことか・・・・・。」

この母こそ、息子に背負われて階段を上る姿が、テレビコマーシャルでも流された、笹川良一の母、テル刀自であった。笹川親子に、これほど貴い逸話があったことを私は知らなかった。厳しい母の教えを守った息子にして、果たし得た親孝行の姿に感動している。

 口絵の写真は、笹川記念館にある「孝養の像」。笹川良一59歳、母テル82歳、四国・金刀比羅宮の参道785段を上っている様子である。

 

「母背おい 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ 母の恩愛」 笹川良一