67、出獄後の戦犯者支援

入獄一ヶ月前の笹川良一
入獄一ヶ月前の笹川良一

 巣鴨から出獄した後、笹川は残っていた資産をもとに、株・商品・土地の取引によって大きな富を得る。これを「戦犯」関係者の救済や競艇事業推進に利用していった。その心中にあったものは、母の教えを守り、「巣鴨に残る戦犯の最後のひとりまで救出する」との決意だった。

 政府の中にあって戦犯救護の活動に尽力した豊田隈雄が、笹川の働きぶりを書いている。

「服役者及び遺族の援護に尽力した人々のなかでも、笹川良一さん夫妻の力添えはひとかたならぬものがあった。終戦(釈放)間もない頃からの服役者のための新聞、雑誌の差し入れを始めとして、釈放されて出所する人々の日程がわかると笹川さん夫妻は必ず出迎えに行き、祝意を述べて今後の生活などについて激励し、自ら経営していた全国の競艇場にも多くの出所者を採用救済した。」

 全戦犯釈放運動における笹川の働きについても、その一端だけでも書いておきたい。

昭和27年の平和条約発効と共に「巣鴨刑務所は名実ともに日本の管理」となる。しかし、戦争裁判の判決を日本が勝手に破棄する事は出来ず、巣鴨服役者は皆無となるも「全戦犯の完全解消」となる昭和33年まで笹川の活動は続けられた。

 国会や政府への働きかけのなかでも、笹川が全国の知事や市町村長宛に送ったという手紙の内容には、心を打たれる。

「拝啓 向夏の候、貴台愈々御活躍の段、大賀奉ります。

さて敵国側のウソ八百の悪宣伝により、戦犯者は極悪罪人の如く誤解されている人が多いのであります。空襲のため家を焼かれ、肉親を殺されたために、興奮の結果、多少常軌を逸した行為をした人も、多少はありますが、それでも命なくして、殺人或いは重傷を負わせたごとき、残虐な日本人はありません。然るに敵側は、元俘虜でありし者が、俘虜当時、煙草の無心に応じなかったとか、横ビンタ一つ二つ打った、些少な事でも、極刑を以て復讐を十二分に致しました。敵側は、興奮のさめた終戦後の戦犯容疑者を、如何なる暴行虐待も思う存分いたしました。私はA級戦犯容疑者として、終戦後東京巣鴨の獄に収容され、23年1224日不起訴で出所いたしました。この前3カ年間において、米軍将校より、なまいきであるとの理由で、胸部、顔面等を強打され発熱、夜分は湿布、昼は謝罪のため使役を命ぜられ、ついに病臥いたしました。それでも引きずり起こして、使役させられました。如此、昂奮にない時でも、この暴行虐待をした敵側は、昂奮状態であった日本軍と代わっていたならば、言語に絶する暴行残虐を敢行した事でありましょう。

 日本の戦犯諸君は、憐れむべき尊き国家的犠牲者であります。この人達と家族は、講和発効と同時に、全員、即時釈放されるものと信じて居りました処、批准後の今日、尚獄中に在り、目出たかざる日を送って居りますことは、同情に堪えません。この上は、原子爆弾的方法を以て、解決するより外に道はありませんので、何卒戦犯諸氏、並びに家族の心情ご賢察の上、戦犯即時釈放要請の決議案を、満場一致御決議、速やかに釈放されたいのであります。いちいち拝眉御願いいたしたいのでありますが、取り急ぎ、失礼ながら、書中を以て、百拝懇願いたします。この外、府県市町村議会においても、国会同様の決議案を、速やかに御決議相成ると共に、戦犯者並びに家族に対し、速やかに適切なる慰問援護の方法を講ぜられたく百拝懇願いたします。」

 

 こうして、ようやく政府や国会が戦犯釈放へ動き出す。しかし、ここに至るまで笹川は、自ら志願して入獄し戦犯容疑者を支え、巣鴨を出所後も容疑者の釈放と家族の援護、それに刑死者の慰霊と、力の限り努力してきた。ここでは、出獄後の奮闘を記す。

 昭和23年末に笹川は釈放される。それから、すべての「戦犯者」がいなくなった昭和33年まで、収容者とその留守家族のため、さらに刑死者慰霊のために笹川の活動は続く。それは、金銭的支援だけではない。自ら動き、献身的にさまざまな援助を重ね続ける。笹川が立ち上げたモーターボート競争会も、出獄した「戦犯者」の就職先となっている。

 笹川の努力は、自己利益や自己宣伝など何かを求めてのことであったとは到底思えない。実際、戦犯者支援の活動は一般に憚られるところであり、彼はGHQに睨まれ巣鴨への出入りを禁じられている。当時は米国の戦犯意識は極めて強く、日本人による戦犯者支援は反米運動とされて、再び巣鴨へ送られる恐れさえあったのだった。それにも関わらず、彼はその死までこの無償の行為を語ったり書いたりしたことはなかった。膨大な量の感謝の手紙も、公にすることはなかったのだ。これをもっても、笹川への曲解が根拠なきものであることは十分に知れる。

 戦犯者支援に笹川を突き動かしたものは何であったろうか。彼の考えの一端は、巣鴨入獄時に米兵へ発した言葉にあるように思う。

 

「戦争の勝敗と正義の擁護は別である。予は正義擁護のために、生命を賭してこの刑務所に乗り込んできたのである。何となれば、ソ連の不正と闘うためには戦犯として法廷に立つ以外に道はないからである。幸いにして戦犯に選ばれたうえからは、たとえソ連のために無実の罪をきせられ、全身を八つ裂きにされても信念を曲げたり迎合したりするものではない。断じて不正には屈さぬ男、正義擁護のために、敢然と生命を賭して闘った日本人として、正義を愛する人類の心中深くに生きるつもりでやって来ている。」

 

おそらく笹川の考えは、「ソ連の脅威に対抗するには日米の友好と協力しか道はなく、戦争の残滓を一掃することが必要である。そして、そのためには敵対のシンボルとでもいうべき戦犯者という存在を消滅させなければならない。」というものであったろう。しかし、そうした理屈以上に、もっと強く彼を動かしたものがあったはずだ。それは「正義」であり、「仁義」「義理」「義侠」などと呼ばれる日本人の根源にある強い感情ではなかったか。

 正義擁護のために入獄し、不正に屈せず敢然と生命を賭して闘った笹川の記録を読むほどに、「これほどの義人がいたのか」と、大きな感動を覚えていった。

 

笹川良一への理解や共感が広がって、「世界は一家、人類はみな兄弟」の社会となるように、彼と共に世界に呼びかける声が大きくなることを願っている。