白鷗通信については、kokorohurihureブログの43番「同期の桜 信じ合って生きよ」、44番「きけわだつみの声への批判」、46番「万世輝く友情の記録」にて紹介した。
今回は、戦没者の同期生たちが60代になろうとする時の述懐を通して考えてみたい。
母国存亡の危機に当たり命を賭して戦い散華した友の死と、やがて来る己の死を対比する初老の同期生による記事が白鷗通信第54号(昭和56年3月)にある。
「私は、あの戦場で死を賭して戦ったのは何故だったのかを、長い間考え続けてきたが、最近自分なりの結論を得たと思った。それは、父や母や兄弟姉妹、血縁の人々が母国を失った民族として、他国の支配のもとに屈辱と忍従の日々を送ることのないように願い、それを実現させるために、命を捨てることもいとわず、戦ったのだということである。あの戦闘のまっただ中で、現在のような日本の存続など、到底考えられなかった。戦いに破れるということは、「鬼畜米英」の支配に甘んじる以外、敗戦国のありようはないと思い込んでいた。だから私たちは、父や母や妻や子や肉親同胞が、安穏に暮らすことのできる日本という国の存続を願望し、特攻死さえも辞さなかったのである。思い上がった言い方かもしれないが、私たちは、「国の存亡を左右する」戦いに、命をかけたのである。「国の存亡を左右する」という意識は、多くの遺書や書簡のなかなどに、さまざまな言葉に置き換えて、表白されている。それぞれの人の持つボキャブラリーや、その時々の感懐などで、表白の辞句は異なっていようとも、つきつめた意識は、私の要約で間違っていないと思う。」
こう書いた同期生は次に、「国の存亡を左右する」意識の有無によって「死」の意味を考察してゆく。同期の友の死が崇高なのは、己の名声や功名心によるものでないからで、戦闘状況に関わらず「国の存亡を左右する」意識のもとでの戦死であるからだとした。そのうえで、指揮官の「死」、例えば海軍の特攻作戦を指揮した大西中将の自決などは、自己の責任によるもので「国の存亡を左右する」意識のものではないとして、批難する直接的な言葉を避けつつも、同期生の「崇高なる死」とは峻別している。ところが、指揮官達の「死」の意味を崇高ではなかったとしながらも、それ以上の論評はしていない。そして、こう続く。
「自分の中だけなら、どのような論理をもてあそんでもかまわないが、活字にして公表する自由も権利も、今の日本に生きる者にはないはずである。」
「散華の世代の生き残りは、散っていった人々の「死の意味」を厳粛に受け止め、その人々が胸に抱いた願望を、少しでも実現するよう力を尽くすことが、真の意味での、そしてただ一つの「慰霊の道」であり、遺族の方々の辛苦に報いる方途であると、私は考えている。それこそが、「サイレント・ネービー」の姿ではあるまいか。」と、結んでいる。
最も多くの戦死者を出した大正十年代生まれ。戦争が始まった頃には、いまだ中学や高等学校に通っていた世代である。当然、社会に対する責任も無く己の将来に夢を膨らませていたことだろう。しかし時代は戦争に、学業半ば青春まっただ中の時に戦場へ。「国の存亡を左右する」との意志を持って戦った。そして、敗戦。帰還できた者たちは、社会の中核世代として、戦後日本の復興を担っていったのである。己の責任の及ばぬ世相の中で、懸命に戦い荒廃した祖国を復興させてきた世代が、60代となるまで考えぬいてきた「戦死」の意味。その心中には、戦時の政治家や軍の指導部、指揮官への批難や怒りがあって当然だ。にも関わらず、「自分の中だけなら、どのような論理をもてあそんでもかまわないが、活字にして公表する自由も権利も、今の日本に生きる者にはないはずである。」として、走ろうとする筆を止めている。「国の存亡を左右する」との意志を持って戦った人の言葉を知れば、安直な戦争批判などをする現代人は、必ずや恥ずかしさに身の縮む思いがすることだろう。
ウクライナや中東における戦争の惨禍を知るほどに、祖国日本の人々が他国の支配のもとに屈辱と忍従の日々を送ることのないように願い、父や母や妻や子や肉親同胞が、安穏に暮らすことのできる日本という国を存続させてゆく務めがあることを自覚しなければならない。
「サイレント・ネービー」に習って言えば、我らは「サイレント・ジャパニーズ」として力を尽くす。それこそが、「崇高なる死」を遂げた戦没者の願いに応える道だと思う。
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