70、謙虚に歴史を見るきっかけは、

「三月十一日午後二時四十分を迎えた直後のあの瞬間、多くの警察官が自分自身の中で一つの覚悟を持ったと思います。 

 そして、午後四時前後の大津波の到来と共に、各自が持った覚悟は、現実味を持って行きました。あの時、我々警察官の前に展開されたのは、目を背けたくなるほどの惨状だったはずです。その修羅場の中で、黙々と警察活動を続けてきた我々警察官には、やはり「覚悟」は残っていたのだと思います。昨今、韓国における客船沈没事故の有様をテレビニュースで垣間見て、あの311の惨状での警察官を思い起こす都度、私は、日本人であること、日本の警察官であることに、やはり誇りを感じます。誰も逃げなかったし、誰も後ろ指をさされることはなかったのですから。」

 東日本大震災から2年目の11月、宮城県警察本部における「幹部力向上研修会」において、講師をつとめた。演題は「国を思う気持ち」、その際の幹部警察官の感想であった。

 この頃には、宮城県警察学校での倫理講話もすでに再開し、警察においても通常を取り戻しつつあった。しかし、地震と津波による惨状の中での警察活動は個々の心に大きなダメージを残し、加えて9名の同僚警察官の殉職によって胸底に深い傷みをそれぞれに抱えつづけていた。それが、思わず口をついて出ることがあった。講師には、警察学校から送迎車が差し向けられる。その車中にあって運転する指導教官と、最初は気軽な世間話をしているのだが、後部座席にいる私と面と向かうことのない気安さもあってか、普段は語ろうとしない大震災の事について話が及ぶ。

「同僚の女性警察官が殉職したのです。当日、私の都合で彼女と勤務を交代していたために、私の代わりに彼女が亡くなってしまいました。私が・・・・・。」

こみ上げてくる思いに耐えきれず、この女性教官は側道に車を止めて泣いてしまっていた。何と言葉を懸ければいいのか、私が思い悩むうちに、「もう大丈夫です。失礼しました。」と、気丈にも運転を再開したのであった。また、別の男性教官は、

「周辺で発見された御遺体は、警察学校に運ばれて洗い清められ納棺されました。その一連の作業に学生達もあたったのです。生れて初めて見る死体、それも津波に巻き込まれ損傷著しい御遺体を洗い清める作業。現職の我々にとっても経験したことのないものでした。それだけに、ショックを受けて作業に出てくることが出来なくなってしまった学生もいました。そんな時は、「貴様達のこれからの警察人生で、これほど過酷な現場には二度と立つことはないだろう。逆に言えば、どんな現場にも立ち向かうことが出来る心構えが得られる経験だ。」と、学生に語っていました。それは、自分自身に対する言葉でもありました。」

「しかし、我々でも耐えきれなかったのは、小さい子供や赤ちゃんの御遺体を目にした時でした。どうしても、我が子のことを考えてしまい、感情を抑えることが出来ませんでした。」

御遺体の発見場所の特定は勿論のこと、遺品の収集など本人確認のための情報を記録してゆく作業の一つ一つに、警察官や警察学校生の辛く厳しい努力の積み重ねがあったことを知らされた。しかし、こうした献身的な作業を経ても身元が確認できないままの御遺体もあった。宮城県宗教連絡協議会では、身元不明の震災犠牲者の火葬にあたり、各宗派によって慰霊供養を行った。私も、神社本庁教誨師として奉仕している。生前の信仰も不明のため、お一人お一人の火葬行事を各宗派が順番でつとめたのだった。勿論、御遺体に御名前はなく記号番号だけが記された前での火葬祭。それは、辛い御奉仕だった。そして、今日も毎月11日午後2時30分からそれぞれの宗教・宗派の儀礼儀式に則って慰霊の祈りが捧げられている。

当たり前のことかも知れないが、事が大規模であればあるほど、人は己の目で見たことしか知らないしわからない。月日を経て、だんだんとわかり得ても、その総てを知り得ることは難しいことなのだ。このことを理解した時、人は歴史を見る姿勢が変わる。歴史に対し、謙虚になれるように思う。

学生たちの戦没者への見方が大きく変化した背景には、東日本大震災の経験があったことは間違いない。学生の感想には、そのことが強く表現されるようになっていった。

「東日本大震災等で、自分の命を顧みずに、市民の為に警察活動を最後の最後まで続けた先輩方を誇りに思いますし、私もそのような警察官になりたいと思います。そして、このような考え方が、戦争で亡くなられた方々に対しても当てはまるということに気づかされたのです。戦没者に対する思いは、哀れみではなく尊敬と称賛です。」

「評論家の中には、多くの学徒が「お国のために喜んで死地に赴いた」などと、評する者もいるが果たして特攻隊員が残した手紙をどう感じているのか、甚だ疑問で怒りさえ覚える。彼らは招集を知った日から近づく死を意識しながら厳しい訓練に臨んでいたに違いなく、その恐怖は言葉で表せるものではなく、想像を絶する忍耐が要求されたに違いない。家族にあてた手紙は、死に対する恐怖に耐え続けそれを克服しようと努力した最後の最後に、家族の幸福と国の繁栄を願って書き綴った遺書である。自らもまだまだ生き続けたいという気持ちを必死に押し殺して書き綴ったものであることを忘れてはならない。」

「自身の欲望を抑え、国の為に忠義を尽くした姿は、警察官という職業においても見習うべきところが多くあると考えます。」

「心が痛みました。六十年前に戦死された同世代の英霊たちの思いに対するものと、自分に照らし合わせた時に感じる心苦しさと二つの痛みです。まだ、あどけなさが残る若者が、やがて必然的に起こりうる「死」という運命を正面から受け止め、その上で愛する家族を国を想う気持ちはまぶしいほど純粋でした。(中略)恨み言一つも残さなかった。そればかりか、時代も人も変わった何十年後の後世の人々にも感銘を与え心を打つのです。それは、まさに彼らの言葉は魂の言葉に他ならないからだと思います。」

 

「戦時下の人々は貧しいながらも、生き抜く勇気、道徳、倫理観や日本人としての誇りを持っていました。今の私たちは「豊かさ」と引き換えに、その大切なものを失ってしまったのかもしれません。現在の日本には「自分が良ければそれでいい」という自己中心的な個人主義者と道徳も倫理もわからない大人が蔓延している気がしてなりません。私も組織の一人として、日々最善を尽くすことを目標とし、勇気を持って職務執行をしていけるように努力したいと思いました。」