71、紀元節復活の意義

神武東征
神武東征

令和の御代の天皇様は126代、そして令和6年は神武即位から数えると2684年となり、これを皇紀と申し上げる。

古代の日本では、神武天皇の御東征により群雄割拠の無法状態が克服され、建国の基盤となる平和と正義の秩序がもたらされる。これなくしては、いかなる国家も成立せず、古代日本の建国が神武天皇の武勇に始まることは当然の道筋であった。

さて、神社の絵馬などに描かれてある神武天皇のお姿の多くは武者姿である。そして、その武勇の精神を継承され、再び軍服を召されたが明治天皇であった。神武天皇の建国の精神から、明治天皇が学ばれたものが何であったのか。そのことを考えたいと思う。

日本の歴史には、元寇を始めとしていく度かの国難があり、アメリカの黒船がやって来てからの幕末期は、建国以来最大の国家的危機であった。アジアの国々を植民地として分割占拠してきた勢いで、日本に開国を迫ってきた欧米列強の侵略性を、我々の祖先は見逃してはいなかった。侵略を防ぎ独立を守るために、国民が一致団結しなければならない。そう決意した先人たちは、天皇様を中心とする緊急の国防国家を作るための努力を重ねていく。橿原の地で神武天皇が脱ぎ捨てられたとされる軍服を、再び天皇様に着ていただくしか、日本を守ってゆく道はないと判断したのだった。そうして、この時代の日本人は、時には血を流し時には合い携えて、老いたる幕府を倒して明治維新を成し遂げる。

国民統合の精神的中心であった明治天皇の御存在こそは、発足間もない明治新政府をして日本の独立を堅持せしめた最大の要因であった。欧米列強の侵略を許してしまったアジアの国々の状況を考えると良くわかる。インドやフィリピンそして中国や朝鮮にも植民地化への抵抗運動が存在したが、残念にも国民を統一する社会意識の核がなかった。民族が分裂し、互いに外国勢力の力を借りて一派の権益のみを守ろうとすれば、分割占拠されるのは当然の結果だった。

しかし、日本では国民に尊皇意識があった。それは幕末期の佐幕派にも倒幕派にも共通する思想。それあったればこそ、維新前後の内乱状態を乗り越え、更には神武古制の中にある統一国家の理想を掲げて近代国家建設へと進み、欧米列強の侵略をはねつける事が出来たのである。

斯くて「紀元節」は、日本建国の理想を確認し、国民としての自覚と責任を固めるための大切な節目であった。ところが昭和二十三年、ダグラス・マッカーサーを連合国司令官とする占領軍の絶対的軍権力をもって、「紀元節」は廃止された。その意図は、日本人の誇りと自信と団結力の源を破壊し、自主独立の気概を持つ日本人が出て来ないようにしておくことにあった。米国に従順な国とする、そのことが目的であったのだ。民主化という美名のもとの占領政策は、神話を否定して民族信仰としての神社神道を圧迫し、皇室と国民の絆を断ち切る為に用意周到に実施されたのだ。民族の歴史や信仰を奪うことは、ヨーロッパやアメリカの侵略における常套手段。アジア・アフリカの植民地化の歴史が示している通りだ。

昭和四十一年、国民運動の成果によって、紀元節は「建国記念の日」として復活、法制化される。ところが今日、「建国記念の日」に神武天皇が語られることは少なく、紀元節の根本精神を知らぬままの日本人が大方となってしまっている。ここに、紀元節復活の経緯や思想を学びなおすことが求められている。そこで、この国民運動に関わった葦津珍彦の論説概要を紹介する。紀元節復活の運動経緯だけでなく、占領軍の民主化の虚偽とそれに迎合した戦後日本の精神のゆがみについても理解いただけると思う。

 

『憲法改変に対応して「国の祝日」の法案が決められたときだった。GHQ、政府、マスコミの世論意識調査では、いずれを見ても国民大衆の八割以上が、二月十一日の神武天皇即位の伝承を残すことを、つよく切望した。議会は、それを米軍当局が好まないのを知っていたけれども、八割以上の国民の明らかな意思を無視できず、GHQに対し懇願した。しかし、GHQは断然これを許さなかった。嘆願の拒否者は、神道指令の起草者バンス博士だった。拒否の理由の論旨はGHQの公式文書にも明記され残っている。

「国民の八割以上の圧倒的多数というが、それは日本には、未だに無教養な田舎者が多いというだけのことで、そんな数字は問題にならない。都市の教養高い知識人の中で聞いてみよ。神武天皇紀元節反対は、必ず多数だ。この日は民主化の神道指令に反する。決して許可するわけにはいかない。」

という論理である。これで日本の議会は、懇請すらもあきらめた。戦後の日本民主化の本質は、ここに明らかに示されている。白人的な思考と白人的な心情を重んじる「教養高い知識人」のみの民主主義で、土着日本人大衆絶対多数の意思を蔑視し、ふみにじることを意味する。日本の「民主的」なマスコミはバンス的民主化に迎合しつづけた。二万三千人の土着日本人が、「二月十一日の建国記念の日の運動」の大衆集会を開いても無視し、無視しがたくなると、からかい記事を書いた。その百分の一にもたらない三十人か五十人の「都市の教養高い知識人」が紀元節反対声明の小集会でもすると、四段五段の大見出し記事だ。

戦後日本では、民主主義の名のもとに多くの大衆運動なるものが行われた。けれども、その九割以上は、いずれも「高い教養ある知識人」がプランを立て、「愚かなる」大衆に対して「主権者としての国民大衆はかく思想し、かく行動しなくてはならない」と教育し、命令して大衆をひきずりまわしたもののみといってもいい。なんたる日本人大衆への侮辱であるか。いやしくも高度の知識人をもって自認する人々が、大衆を啓蒙してやろうと欲するのを、私は必ずしも拒否するのではない。だが大衆に働きかけようと欲するならば、知識人も大衆から学ばなくてはならない。大衆を形成する一人一人は、高度の知識人ほどの知もない愚民であるかもしれない。しかし、それが数千万となく一致していくところには、片々たる知識人の思いの及ばないものが秘められている。彼岸や盆の大衆の墓参。神社の例祭や七五三、初詣。一億近い大衆が、自らの意思で同一行動をとる。この土着大衆の意識の巨大さ、その根強さに、土着的な真の神国意識の根がある。』

 

 紀元節の根本精神は、道義国家建設という大理想である。この建国の理想こそは、永い永い年月を貫く民族の伝統と言っていいだろう。

「伝統の力が最大となるのは、伝統を回復しようとする僕等の努力と自覚においてである。」との小林秀雄の言葉に代表される意見を受け止めて、現代の悪しき世相に絶望することなく、祖先が守り伝えた思想や形を学び、先人の心に己の心を重ねようとすれば、必ずや祖先の神霊は感応されて、我々の心を高みへと導いてくれる。国民一人一人の心が高く尊くなれば、世相も明るく清らかになるに違いない。

二月十一日「建国記念の日」の意義を学んでいただきたいと願う理由は、ここにある。

 

参考・引用文献

葦津珍彦「葦津珍彦選集」神社新報社 平成八年

葦津珍彦「神国の民のこころ」現代古神道研究会 昭和六十一年

今泉定助「今泉定助先生研究全集」日本大学今泉研究所 昭和四十五年

小林秀雄「伝統について」 昭和十六年

 

山岡荘八「小説太平洋戦争」講談社 昭和六十二年