終戦直後、出獄した共産党員たちは、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある。」更には、「天皇こそは、最大の戦争犯罪人」と、主張した。しかし、翌年の昭和21年4月の選挙において、共産党は5議席にとどまる。天皇制擁護という国民感情には勝てず、大衆から孤立する危険を察知した共産党は天皇制打倒のスローガンを外さざる得なくなる。
選挙前には機関誌「前衛」において、「天皇制打倒は共産党の戦略的任務であり、それを隠蔽することは党の基本任務の放棄であり、大衆に対する欺瞞であり、同時に解党主義的な日和見主義である。」とまで意見表明していたにも関わらず、党の基本任務を放棄したかのように隠蔽してしまった。
日本における民主主義革命の徹底を願う勢力にとっては、天皇制の存在こそは最大の障碍であるが故に廃止しなければならないということになる。しかし、国民の大多数は皇室について特別な発言はしないし、頭で考えることもないが、何となく心で感じている。理屈が先に立つ知識人の主張によって、天皇制を無力化することなどできないことを、知識人自らが認めて、天皇制打倒の基本任務を隠蔽し続けている。その要因となったのは、戦後の昭和天皇の全国ご巡幸が、占領軍の予想に反し、国民の大歓迎のもとに行われたこと。占領政策によって、教育が皇室をタブー視して、神話はもちろんのこと皇室の果たしてきた役割を無視し続けてきた後も尚、新年など宮中参賀には十数万の人出であることなどだ。皇室に対する敬愛の念は、日本人の心に生き続けてきた。
村上兵衛は、「私は天皇やその家族の写真を、生理的な嫌悪なしに見ることができない。」と書いたが、今日にあっても「生理的な嫌悪」といった言葉まで使って、皇室敵視の発言をする国会議員もいて、虎視眈々と皇室攻撃への機会を待ち続けている。共産党を始めとする左翼は、歴史の本質は変革にあると考えて、その妨げである天皇制を打倒すべしと唱えているが、ロシアや中国のような革命が起こらなかった日本の歴史の本質には、目を閉じてしまっている。
天皇の尊き本質は、日本の歴史のなかにある。例えば、織田信長や豊臣秀吉が天下を平定した時、直ちに朝廷に跪いて臣下の礼をとって、天皇よりの任命を受けている。源頼朝と徳川家康は、朝廷へ対抗する意図はあったが幕府を設けて、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ臣下に甘んじた。実力で権力を掌握した覇者が、自らの意志でもってこのような行動をとったためしが他国にあるのだろうか。
神代から、日本人が守り抜いてきた皇位継承の歴史、歴代天皇の歴史こそが日本という国の本質であり、他国のような革命を許さなかった日本人の特色である。
今日、国民の大多数は皇室について特別な感情や意見を持ち得てはいないように見える。しかし、昭和天皇の御不例の折のお見舞いの記帳や、崩御せられし後の皇居前広場に溢れた群衆の姿を思い出すまでもなく、事ある毎に多くの日本人が皇室敬慕の行動を取ることに、余計な思想や意見の入り込む余地はない。
令和元年5月1日、全国の神社では新帝即位にあたり践祚改元奉告祭を斎行。宮城県の鹽竈神社では、祭典後に境内いっぱいの参拝者とともに神社関係者一同、塩竈市長の先達により、遙か皇居に向かって「天皇陛下万歳」を三唱した。それぞれに日の丸の小旗を持ち、新しき御代を迎えた喜びを分かち合ったのだった。子供たちがどうしていいのか判らずに、戸惑いながらも小旗を振る様子や、感激に涙する女性の姿などを印象深く思い出す。又、改元なった令和の御朱印を求める行列は、表参道202段の階段下まで伸びていたそうだ。立つことはおろか顔を上げることも出来ない状況で、御朱印帳に向き合い墨書していたために、万歳三唱以降の境内の様子は不明のままだった。午後8時の閉門後に、初詣のような賑わいを見せた境内の様子を確認できた。新しい御代を喜び神社に参集する人の波は、全国同様であったと聞く。
先帝陛下の御譲位が大方の国民の理解されるものとなり、国民意識の根底にある天皇陛下への敬愛の念が社会現象となって現われたと言える。
全国で響き渡った天皇陛下万歳の声、朱印を求める人の波。戦後、占領軍によって国民から切り離されようとされた皇室や神話そして神社。そして、過酷な占領政策だけでなく、その尻馬に乗った政治勢力によって学校及び公的機関からも排除されてしまった。しかし、如何なる攻撃に遭おうとも、我ら日本人の中にある皇室敬慕の心情を消し去ることは出来なかったのだ。日本人であることを、何とも誇らしく有難いことかと思うのであった。
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