74、源融

「融(とほる)」      

 京都市下京区に塩竈町があることをご存知だろうか。嵯峨天皇の第十二皇子として生まれ、後に左大臣となった「(みなもとの)(とほる)」の屋敷があつたことに因んだ町名である。

融の何が鹽竈と呼ばれる所以なのか。

融は、六條河原の邸内に鹽竈の浦の景色を模して広大な庭園を造り、毎日大阪湾から二十石もの海水を運んで塩を焼き、遥か陸奥の国鹽竈を偲んだとのことによる。塩焼く煙が立ち上り、日本最初の海水庭園を持つ融邸は、都人たちにとつての新名所となる。斯様な徹底した風流人でありながら高位を極めた貴公子、そんな人物だからこそ源氏物語の光源氏のモデルとも言はれるのであろう。

世阿弥の謡曲「融」(古くは「鹽竈」と称された)から、一場面を紹介すると。

 東国から上京して来た旅の僧が六條河原で休息していると、一人の翁が汐汲みの田子を担いで腰蓑をつけて現れた。僧が海辺でもないのにその装束はおかしいと言うと、翁はここを何処と思つているのか、こここそ鹽竈の浦、融の大臣が陸奥の千賀の鹽竈を都の内に移された海辺なりと答える。僧は、その謂れを聞きたいと翁に頼む。すると、

シテ「嵯峨の天皇の御宇に、融の大臣陸奥の千賀の鹽竈の眺望を聞しめし及ばせ給ひ、この所に鹽竈を移し、あの難波の御津の浦よりも日毎に潮を汲ませ、ここにて塩を焼かせつつ、一生御遊の便りとし給ふ。然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ、浦はそのまま干潮となつて、池辺に淀む溜り水は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松蔭の、月だに澄まで秋風の、音のみ残るばかりなり。されば歌にも、君まさで煙絶えにし鹽竈のうらさみしくも見え渡るかな、と貫之も詠めて候」

 融が鹽竈に関心を持ったのは、陸奥出羽按察使(あぜち)に任命されてかららしい。按察使は、地方官として政情を調べ民情を視察する職だが、実際に陸奥出羽まで融が来たかどうかは不明。任地に行かず遥任として都で執務した例が多くあるからだ。ただ、政敵であつた右大臣藤原良相らによる策略によって、按察使の任を盾に陸奥に出された可能性は残っている。

藻塩(もしお)を焼く新名所として、更には融没後の荒果てた様を詠んだ紀貫之によって、鹽竈の名は有名となり多くの歌に詠まれることとなる。

古今和歌集

みちのくはいづくはあれど鹽竈の浦こぐ舟の綱手悲しも  東歌 陸奥歌

伊勢物語

鹽竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここに寄るなむ          在原業平

紫式部集

みし人のけぶりとなりし夕より名も睦じき鹽竈の浦              紫式部

千載和歌集

しほがまの浦ふく風に霧はれて八十島かけてすめる月影           藤原清輔

「国歌大観」等に載る鹽竈に関する歌は二百首にも及ぶも、そのほとんどは実際に鹽竈の景観を見て詠まれたものではない。にも関わらず、鹽竈は詠まれ続けた。それは何故か。

本稿は、荒井幸雄氏の「源融研究」に依拠しているが、その中で同氏は、その答が屏風絵にあると推論している。屏風と歌との密接な関係や、殿内装飾具としてだけでない屏風の役割の大きさを述べた後に、その証左として次の一首を紹介している。

新古今和歌集 巻第十八

 屏風の絵に鹽がまのうらかきて侍りけるを

古のあまやけぶりとなりぬらむ人めもみえぬ鹽がまの浦         一條院皇后宮

 塩焼く風流人源融によつて、鹽竈は都人あこがれの景勝地となったのである。