多くの八幡神社の御祭神とされる応神(おうじん)天皇とその母神の神功(じんぐう)皇后、そして武内宿禰(たけしうちのすくね)のお話である。
第14代仲哀天皇の御代に九州が乱れ、神功皇后は天皇に伴い征伐に向かわれるが、勝利を得ることが出来ないばかりか、天皇が急病でおかくれになってしまう。皇后は天皇崩御を隠して国民の動揺を防ぎ、九州動乱の根本原因である朝鮮半島を平らげるために、軍を率いて海を渡ったのであった。そして、新羅(しらぎ)を討伐して九州動乱の元を断ち、さらに進んで高句麗(こうくり)と戦い、その半島侵略の野望を打ち砕くとともに百済(くだら)を救った。日本の防衛線を守った上で、滅亡の淵にあった隣国を救ったという壮挙である。神功皇后にとっては、仲哀天皇が崩御せられた時、あとを継ぐべき応神天皇はまだ自分のお腹の中。このような非常時に、野心から大戦争をしかけることがあるだろうか。やむにやまれぬ事情があればこそ、海を越えての大戦争であったのだ。
これら重大で困難な問題に直面しつつ、応神天皇が御成人されるまでの十数年間にわたり、神功皇后は摂政せられた。よって、日本書紀では、皇后を天皇御歴代と同じように一巻を立てて賞賛し、神功皇后と申し上げている。
次に、武内宿袮については、山鹿素行(やまがそこう)の「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」より記す。まずは、「中朝事実」について。
兵学者である山鹿素行は、孔子の教えを理想とし、「その理想が実現している国こそ、我が日本であった」という感激を持って「中朝事実」を書いている。「中朝」とは、「世界の中心の王朝」の意味であって、日本を指しているとした。儒学の倫理思想を基盤にした素行は、我が国の古典を綿密に分析、日本の国家理論を体系化したのであった。
そして、「中朝事実」を洗心の鏡と仰ぎ大切にされたのは、乃木希典大将であった。日露戦争の後、学習院院長として皇太子殿下(後の昭和天皇)の御教育に尽くしておられた乃木大将は、明治天皇の御大葬の日、夫人と共に天皇に殉じ自決された。そして、殉死の二日前のこと。大将は皇太子殿下をお訪ねになり、「今は、まだ難しいでしょうけれども、将来即位せられた時に、この書物は必ずや御役にたつでしょうから。」と、自ら朱点を入れた「中朝事実」をお贈りになっている。昭和天皇は、生涯この本をお手元に置かれ大切にせられた。我々国民が今もなお仰いでやまない昭和天皇の御資質を育んだ一端は、「中朝事実」にあると申して良いだろう。そして又、多くの国民も、この本によって日本の国柄や日本人としてのあり方を学んできたのである。その顕著な例として、山本五十六大将の挿話があるが、これについては後述する。
さて、武内宿袮にもどる。「中朝事実」には、次のようにある。
『景行(けいこう)天皇の御代、天皇は臣下を招いて宴を催しましたが、皇子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)と武内宿袮はやってきません。天皇が欠席の理由を聞くと、二人はこう答えるのです。このような宴が開かれている日には、朝廷につかえる高官や役人は心が遊興にあって、国の任務から離れてしまっています。そんな時に、狂人がスキをついたならばどうなるでしょう。私どもは、それに備えて警戒しておりましたので、出席することが出来ませんでした。これを聞いた天皇は、二人に目をかけて、稚足彦尊を皇太子に、武内宿袮を大臣としたのでありました。』
このことについて、山鹿素行は次のように書いている。
『大きな責任がある官位には、よくよく人を選んで就けなければいけない。大臣という呼称はずっと続いているが、その始まりは武内である。官位の中でも大臣は一人だけであり、多くの人の手本でなければならない。よって該当する人がいなければ、欠けたままでも仕方がない。それほどに重要である。景行天皇は武内の誠実な行いを認めて大臣を任せた。以来、武内は六代の天皇の政治を手助けしたのである。』
このような武内の篤行を学び、身をもって実践されたのが、大東亜戦争開戦時に連合艦隊司令長官であった山本五十六大将であった。
昭和15年11月、皇紀二千六百年奉祝式典が催され、日本国中は奉祝ムード一色。特に皇居前広場では、天皇皇后両陛下ご臨席のもと、大式典、奉祝会が執り行われ、文武百官はもとより各界代表が参集しての盛儀があった。当然、連合艦隊司令長官にも列席するようにとのお召しがあったが、山本長官は旗艦長門の艦橋にあって、盛典を犯す者がないようにと警戒していた。昭和15年は支那事変の最中で、蒋介石にとっては日本爆撃の好機に違いなく、絶対に油断できないとする連合艦隊の首長としての責任感による行動であったのだ。
なんと言う一致であろうか。一千数百年の時をへだてていても、武内宿袮と山本長官の行動は見事に符合する。これこそ、国思う真心であり、日本を守ろうとする責任感の発露と言える。
宮城県の鹽竈神社絵馬殿に、文久4年(1864年)に奉納された「神功皇后と武内宿袮」の絵馬がある。何故、文久4年の奉納であったのか。当時の人々が、何を願い、そして何を誓ったのかを考えてみたい。
文久4年は、米国のペリーが黒船をひきいて浦賀にやって来てから11年目、日本全国が非常に動揺していた時期である。欧米列強との不平等条約の締結、そしてそれに対する批判が幕府に集中するなど、国内には攘夷の機運が満ちていた。仙台藩でも大砲の鋳造や調兵所の設置など、戦争への備えが始まっていた。太平洋に面した塩竈の人々にとって、外国船からの攻撃は、もはや現実のものであり、日々危機感をつのらせていたに違いない。しかし、国を統合する力を失った幕府は頼りとならず、国の安全保障には暗雲が立ちこめていた。このような状況下で、この絵馬は、武神たる鹽竈の神様に奉納されている。そこには、みずからが前線に立って、断固として郷土を守り抜くとの決意と、その心根に偽りのないことの誓いがあった。つまり、絵馬は、当時の塩竈の人々の祖国防衛の決意表明の「あかし」であったのだ。
「攘夷」か、それとも「開国」か。当時の人々は、それを自分自身のこととして真剣に考えていた。それは、平和な時代の我々には想像もできぬほど深刻なものであったはずだ。その思いをうかがい知るための記録として、当時ロシアとの直接交渉にあたった函館奉行の堂々たる鎖国論がある。それを次に紹介する。
『国を開いて外国と交易するなら、贅沢は増し、ある者は必ず富み栄えるだろう、しかし、ここ百年のヨーロッパの歴史を見れば、絶え間ない戦争の継続である、わが国はそういう交易によって繁栄の仲間入りをし、同時にそのために避けられぬ戦争をくりかえすという愚につくより、貧乏を嫌わず、平和に道徳を持する生活をしたい、このために鎖国を国是としている。』
「国を守る」ということは、一体なにを守ることなのだろうか。そのことを命がけで考えた先人は、遂に日本の国柄へと思いが至る。いかなる時代となろうとも、このような父祖の思想は我々の心の宝であり、自国の歴史を学ぶ意味はここにあると思う。
自主独立を根底に、正義を愛し不義を憎むの心こそ、我が日本の国民性。そして、その精神の象徴である「神功皇后と武内宿袮」を、絵馬として鹽竈神社に捧げた義人たちを、郷土の誇りとしたい。この絵馬によって仰ぎ知る、先祖の勇気に頭を垂れるばかりである。
参考・引用文献
山岡荘八「小説太平洋戦争」講談社 昭和六十二年
平泉澄「物語日本史(上)」講談社学術文庫 平成五年
山鹿素行「中朝事実」中朝事実刊行会 昭和六十年
保田與重郎「皇大神宮の祭祀」伊勢神宮崇敬会 平成十一年
清水勝「日本史年表」河出書房新社 昭和五十六年
新村出「広辞苑第三版」岩波書店 昭和六十年
國學院大學日本文化研究所「神道辞典」弘文堂 平成六年
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