77、五箇条の御誓文 その1

五箇条の御誓文
五箇条の御誓文

五箇条の御誓文

1、混迷する日本社会を立て直すために

 今日、日本は多くの問題を抱えている。家庭では親が子育てに迷い、学校も又、学問以前に規律をなくし、青年は志を失い自己の欲求に従うばかり。経済も成長性が低く、政治家は国家の理想を語ることが出来ぬままとなっている。

目指すべきものを失い、ただよえるようなこの日本社会を立て直すためには、国民が一丸となって目指すべき理想が掲げられなければならない。それ故、明治天皇が示された「五箇条の御誓文」を、あらためて読み直し、日本の国家の目指すべき理想を確認したいものだ。

幕末の混乱を乗り越えて、明治維新を成し遂げた先人たちは、五箇条の御誓文を国家の基本理念として、世界が驚くほどの一大発展を為してゆく。イギリスの文豪H・G・ウエルスは「人類のあらゆる歴史にも、いまだかつて当時の日本のような長足の進歩をした国民はない」と、明治日本を絶賛している。以前、よくテレビに出演していたアフリカからの留学生ゾマソン氏は、国づくりの手本として明治維新を勉強していると語っている。このように、他国から高く評価されている歴史を、子孫である我々が知らずにいることは悲しいことであり、祖先に対し誠に申しわけない思いがする。日本を立て直す為、今こそ五箇条の御誓文を学びたいと思う。

2、五箇条の御誓文の背景

 五箇条の御誓文という明治新政府の基本政策が決まる前に、王政復古の大号令があった。日本は天皇を中心とする国であって、幕府中心の国ではないとの宣言で、国民統合の国家体制を本来の形に復活するという趣旨である。何故、第一番に王政復古が宣言せられたか、当時の日本の状況から考えてみよう。

 当時のアジアは、インドから以東、中国から朝鮮にいたるまで、ヨーロッパやアメリカの帝国主義により、ことごとく侵略されて、清国などは亡国同然の状態となっていた。そして、最後にねらわれたのが日本である。力の弱い小さな国でありながら独立を守り抜き、その後、歴史上比類なき大発展を成し遂げることが出来た要因は、どこにあったのか。

清国や朝鮮にも、強い愛国精神による独立運動があった。しかし、残念なことに日本を除くアジアの各国には、国民意識社会意識の核となるものがなかった。日本には国民統合の精神的中心として天皇がおられた。当時バラバラであった二百六十余藩を統合する明治天皇の御存在こそ、日本の自主独立を護持し得た最大の要因となる。天皇は、階級を超えて又党派を超えて、無私の立場で国家の安泰を祈念せられる。まさに、神聖なるために常につつしみ神祭りなされる天皇の、その神聖なるものを国民は信じていた。

「天皇こそは、国民に神聖感を授け得る唯一の存在である」、この国民意識を王政復古の号令によって再確認した後、五箇条の御誓文は公布されたのであった。

 明治元年314日、明治天皇は天地の神々を御自身で御祭りになり御誓文をたてまつられる。つまり、天皇みずからが神々に対してお誓いしたことを、国民にも知らせ、共に守り行動の規範としていこうとするもので、そこには外国の君主のように自分の考えを国民に押し付けるという思想はない。

 ただ、今日の日本人は、天皇と国家体制との関わりや、その点における日本の特殊性についてあまり深く考える機会がなく、わかりにくい事柄のように思うので、五箇条の御誓文の内容に入る前の基礎知識として、次の文章をご紹介する。

 

 「政治といふものは、神聖・高貴なものであるにしても、それを現実的にこの地上に具体化し実現して行くのには、そのための手段・政策がなくてはならない。(中略)問題なのは、その政策なり権力担当者を選ぶのに、その目的とし精神とするところは、無私公平であっても、現実の結果としては、国民の中のだれかが利を得たり、損をすることをまぬかれない法則が作用する。(中略)それで政治といふものは、古くから対決闘争の場となり、権謀術策の場となることをまぬかれない宿命をもってゐるとすらいっていい。(中略)しかし、近代の政治といふものは、そのことをはっきりと認めて、政策の対立、権力の対立を、徹底的に表に露出させ、一定のルールのもとに自由に闘争させ、その闘争の成果を待って、政策も権力の帰属も決定させようとするのである。(中略)だが当然そこには対決闘争と謀略が生ずる。しかしそれはしかたがない。けれども、それを仕方がないからと言つて、ただそれだけに放任しておけば、国民の精神は、ただ分裂して統合するところを知らず、謀略闘争にのみ終始して、罪けがれの泥沼におちて、人間の神聖感を失ってしまふであらう。

そこで政治に対して、常にその点をきびしく反省させる必要がある。この反省をきびしく要求するところに、日本国の祭政一致といふ精神なり、制度の存する理由がある。(中略)明治天皇は、祭政一致の制度を典型的に、明確にしめされたが、天皇御自らの第一のおつとめは、祭祀にひたすらに御専念なさることにあった。(中略)天皇が政策論争や政権移行について直接干渉なさることはなかった。(中略)

所定の手続きを経て後に、一つの政策が決定され、それがただの一党派一セクトの主張ではなく、国の法令として公にされるためには、それはすべて天皇に報告し、天皇の裁可を必要とした。天皇が裁可なさらぬといふことはなかったが、政治家はそれが天皇の名に於て裁可されるにふさはしいものであるかどうかを反省させられる機会を与へられた。(中略)それが天皇統治の「思想の論理」であった。政策論争は、どちらがより公正にして神聖なる「天皇統治」の目的に一致するか、との共通の論理の上に立ってゐた。それが激しい政治的対決のために、ともすれば救ひがたい泥沼の謀略闘争におちてしまひがちな政治に、大きな自己反省を与へ、手段のために神聖なる本来の統治目的を見失はせない偉大な力となった。」

(「神聖をもとめる心・祭祀と統治との間」葦津珍彦)

 

 今日の政治においても、政治倫理問題や政党間の不毛な利権争いなど、政治に対する国民の不信を招く事態は数多く、それだけに神聖なる天皇による統治の論理を指摘する葦津論の重大さは理解いただけるものと思う。 つづく