明治天皇の「お国の為に尊い一命を捧げられた方々の神霊は、国自らが永久にお祀り申し上げ、お慰め申し上げるように」との大御心によって、明治2年6月29日に東京招魂社が御創立。その10年後に、東京招魂社は靖國神社と改称、今日に至っている。
御祭神は、アメリカのペリー提督が黒船を率いて日本にやって来た嘉永6年以降、明治維新・日清戦争・日露戦争さらには先の大東亜戦争に至るまでの間、国に殉じられた246万余柱の神霊をお祀りしているが、その内の実に213万余柱は大東亜戦争による方々であり、先の大戦がいかに過酷な戦いであったかが知れる。現在、日本の国に命を戴いて暮らしている日本人で、父母・祖父母・さらには曾祖父母、そしてその兄弟姉妹や親戚へと遡っていけば、靖國神社にまつられている方々と血の繋がりのない、いや縁もゆかりもない人は一人もいない。皆同じ日本人の血が流れている。そのことによくよく思いを致し、靖國神社遊就館の展示を見てもらいたい。自分が同じ立場にあったならば、どのように考えて対処しただろうか。そういった問いかけをしながら見てゆけば、必ずや戦没者一人一人の思いが拝観者の胸を打つことだろう。
遊就館の一室に、戦前の合祀祭において使用された「御羽車」が展示されてある。靖國神社の御本殿に神霊が合祀される際、神霊代はこの御羽車にお乗せ申し上げ、神職らに担がれて参道を進む。一切の明かりを消して斎行される合祀祭。清らかな闇の中を、かすかに浮かぶ雪洞の灯に導かれて御羽車は社殿へと参道を進んでゆく。その両脇には、鉄道運賃や宿代が国より支給され全国から参集した遺族の姿があった。境内を埋め尽くす遺族の多くが黒紋付き羽織の正装で、敷き詰められたむしろに正座して、肉親の神霊が合祀される儀礼に参列していた。小さな子供を膝に抱え、ハンカチを目頭に当てて泣いている御婦人の姿もあった。この合祀祭の様子は、NHKラジオにて全国に実況中継される。実に悲しみの極みの神事であったろう。当時、この御羽車を担ぐ所役を奉仕した先輩神職から聞いた話は、忘れることが出来ないものだった。「静静と遺族が見守る中を進む御羽車に向かって、小さな男の子が思わず、お父さんと大きな声で叫んだ。泣きたい思いを必死に堪えていた遺族はもちろんのこと、奉仕していた我も涙で前が見えなくなった。押し殺した嗚咽の声が、寄せては返す波のように身に伝わってきたのだった。」
こうした悲しみの中、お一人お一人が合祀されていったのだった。
当ブログkokorohurihureでは、靖國神社の御祭神のことを中心に、皇室や神話、神道、また明治維新などについて発信してきた。昨年8月1日の第1話より数えて、今回で80話となる。その中から、大東亜戦争戦没者に関連する内容のブログだけを抜粋、加筆修正して上梓することとし、編集作業を始めている。書名を「戦時青年 ただに讃へむ」とした。その「あとがき」の結び一文を記して、お知らせさせて戴く。
『我が国において、日本武尊に始まる「心やさしき勇者」の歴史。戦時青年たちは、間違いなくこの歴史に連なる勇気と人を思いやるやさしさを示してくれた。心やさしき勇者の物語を伝え続けるかぎり、日本は勇気と思いやりに満ちた日本であり続ける。先人が伝え来たった日本武尊神話とともに、大東亜戦争時の青年たちの物語もまた神話となって、将来の日本青年にやさしさを、そして勇気を語り続けることだろう。』
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